オープンソースの本質

よく「オープンソースと関係あるんじゃないの」と漠然といわれるので、オープンソースPICSYの関係について書いておこう。

オープンソースの本質は、生産プロセスのオープン性と仮想化にある。ストールマンのいうフリーソフトウェアからぺレンズやレイモンドのいうオープンソースへの概念的な重点の違いはそこだ。レイモンド三部作は、「伽藍とバザール」という表題のとおり、生産プロセスに重点をおいた分析であることは言うまでもない。

情報財の生産プロセスをオープン化、仮想化するためには、ソースがオープンでなくてはならない。逆に言えば、ソースをオープンにすることによって、オープンソースが可能になるのはソフトウェアだけではないわけだ。
例えば、二年前に政策分析ネットワークで行った「e-democracyの限界と可能性:e-japan戦略、2ちゃんねる、政策形成プラットフォーム」というシンポジウムでは、官庁での政策プロセスを公開し、ソースを公開することによって、政策生産におけるオープンソースが可能ではないかということが話し合われた。いまのところ、オープンソースへの賛同者が多い経済産業省をはじめとして、官庁がもっている膨大なデータを公開しているというふしはみられない。また、政策や法律の制定のときに、その背景にある膨大な基礎資料を一緒に提出するということもみられない。
数年前に竹中大臣の「経済財政諮問会議の運営をオープンソース・ムーブメントで」という発言があったが、オープンソースの本質をまったく理解していなかったので、当然うまくいくはずもなく、何も起きなかった。

また、他の様々な情報財、音楽や映像、テキスト等もオープンソース化されてよいはずだ。これらの試みには例えば、creative commonsopen creationなどがある。

また、blogとtrackbackによる相互参照は、様々な知的生産者たち(政治家、ジャーナリスト、経営者、技術者、科学者、学者などなど)にとって、生産プロセスを公開し、まとまった記事や論文という形式になる前の整理されていない知のソースを提示しているのだ。

整理されていないドキュメントの重要性は以前からあった。たとえばヴィトゲンシュタインのようにほとんど出版物がない哲学者の研究において、青本のようにノートや草稿が言語哲学の理解に大きな貢献をすることがある。

話の順序がおかしくなった。
そもそも、オープンソース自体がそのようなものなのだ。
オープンソースソフトウェアが育ったのが、欧米の大学院というアカデミックな文化圏であるのは偶然ではない。近代科学の勃興は、再現可能性を基礎としている。ソースを明確に提示して再現や実証が可能であるということが、それ以前の哲学とガリレオ以来の近代科学の大きな分水嶺になっている。すなわち、オープンソースという知的生産プロセスの概念は近代アカデミックコミュニティによってはぐくまれていたのであり、ストールマンはMITのAIラボで経験したオープン性は、その結果なのだろう。

再現性や批判性を確保するためには、できたもの(実行ファイル:研究成果)だけではなく、それをつくるために使った材料(ソースファイル:リファレンスデータ)も公開せねばならない。

オープンソースが大学院という環境で広がっていったことがそれを証明していて、
彼らはそれに自覚的であることは、以下の文献から明らかだ。

1.Linusという名前の由来
オープンソース界のスーパースターが集まった論集での最初に述べられるエッセイだ。Linusという彼の名前が両親の尊敬していたノーベル賞科学者リーナス・ポーリングからつけられたという話から始まる、ワトソンの「二重螺旋」の発見にまつわる感銘をうける逸話なので、ぜひゆっくりと読んでほしい。
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Linux(リナックス)を開発したのはリーナス・トーバルズである。その彼自身の説明によると「リーナス」という名前は、彼の両親が尊敬していたノーベル賞科学者リーナス・ポーリングにちなんだものらしい。ポーリングは、ノーベル賞を一度だけでなく、二度も受賞している。そして、DNAの構造が発見できたのは、彼の基礎研究のおかげなのだが、そのあたりのエピソードに、オープンソース運動に通じる教訓が含まれているように思われる。
 広く知られているように、実際にDNAの構造を解明したのはポーリングではない。その偉業をなしとげたのはフランシス・クリックとジェームズ・ワトソンの二人である。そしてその経緯は、ワトソンの著書『二重らせん(The Double Helix)』に詳しい。この本には、科学的探究が実践されていく様子が驚くほど正直に語られている。そこには、才能のきらめきや鋭い洞察だけでなく、科学者間の政治的な駆け引き、競争、運のありなしが勝者を決めた要因であることが説明されている。DNAの秘密をめぐる探究は、ワトソン、クリックのケンブリッジ大学のグループと、ポーリング率いるカリフォルニア工科大学グループの熾烈な競争であった。
 ワトソンは、『二重らせん』の中で、自分とクリックがDNAの謎を解き明かし、らせん構造モデルを作りだしたことをポーリングが知ることになった経緯について述べている。そして彼の困惑まじりの記述に登場するのが、ケンブリッジとカリフォルニア工科大を行き来していた彼らの共通の友人、マックス・デルブルクである。ワトソンとクリックは、すべてがはっきりするまで自分たちの大発見をもう少しの間ふせておきたいと思っていた。デルブルクはそんな二人の心情に共鳴しつつも、結局、科学そのものへの忠誠を貫く。ポーリングが自分たちの発見について知ったときのことを、ワトソンは次のように記している。

 私は、デルブルク宛ての手紙の中で水素の二重構造について書き、最後のところで、リーナスには言わないでくれと頼んでおいた。自分たちの見解を整理するにはあと数日かかる。それまでポーリングには、水素結合のことを考えてほしくなかった。何らかの理由で違った結論になる可能性がまだあったからである。しかし私の要望は聞き入れられなかった。そしてリーナス・ポーリングは二重らせんのことをマックス・デルブルク経由で耳にしている。デルブルクが研究室の誰かれかまわず話したからである。デルブルクには、数時間もすればあ、その噂が生物学研究室から、リーナスの下で働く人間に伝わることがわかっていた。彼がそのような行動をとったのは、私から何か聞いたらすぐに伝えることをポーリングに約束させられていたからである。また、科学にはどんな秘密もあってはならないという考えのデルブルクは、ニュースを知りたくてやきもきしているポーリングをそのまま放っておけなかったのである。

 ワトソン自身も、秘密主義に違和感を覚えていたことはまちがいない。競争があるゆえに、当事者は持てる知識をすべてさらけ出そうとしない。秘密主義は、たとえわずかにせよ、科学の進歩を遅らせかねない。ワトソンの著書『二重らせん』のテーマのひとつは、彼のそんな告白である。
 突き詰めて言うなら、科学的探究は情報を秘密にしないオープンソースの考え方そのものである。科学の手法は、発見のプロセス、正当化のプロセスを基盤としている。科学的な結果が正当と認められるには、再現性がなくてはならない。同じプロセスを科学的に再現するには、どういう仮説であったか、実験条件や結果はどうだったかといったことについての情報が不可欠である。発見のプロセスには何通りもの経路があり、科学的発見は何の脈絡もなく起こることもある。しかし最終的には、発見のプロセスは情報共有されなければならない。コミニュティで情報が共有されることによって、ある研究者ができなかったことにほかの研究者が挑戦できる。誰かのアイデアに別の人間が手を加えて結実させることもできる。これらのことは、情報の共有なしに実現できない。*****************************************************************************


2.Linus自身の発言
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「製品と知識は別物だ」とTorvalds氏。オープンソースは,情報と知識を自由に共有するという西洋科学が「ギリシャ時代から」踏襲してきた伝統の延長線として位置付けられるべきだと言う。

 「誰かと知識を共有するということは,その相手も自分に知識を分けてくれるということだ。そう考えれば,相手と知識を共有したからといって金銭的な損失を被ることはない。むしろ共有し合った方がプラスになる」とTorvalds氏。大学の研究成果を共有し合うのは,ほかの研究者に研究成果を開示することで,さらに高度な研究につなげるためだ。オープンソースコードは,多くの開発者の競争やテストを勝ち残ってきたコードであり,公共の知識に大きく貢献するはずだ,と同氏は言う。

 「私は自分を科学者だと考えている。だから金持ちにはなれないだろう。実際,Linuxが金儲けの手段になることはないと思う」とTorvalds氏。
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さて、オープンソースの話は情報財だけなのだろうか。オープンハードの話はおいておいて、Hotwiredに連載している藤元健太郎の「ITビジネス原論」の第4回は、「価格のオープンソース化に備えろ」というテーマだ。これこそまさに、PICSYオープンソースの関係の本質に接近している話だといえよう。消費者は商品の生産プロセスの内部情報を知りたがっている。そして、生産プロセスのオープン化と仮想化を達成するためのツールとして、生産プロセスにおける価格の伝播性=PICSYが要求されるのである。

これの具体例として、WiredのOpen Source Everywhereという記事がある。CNETで梅田さんが紹介blogを書いているので、参考にするといいだろう。

ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」のように、中世の図書館は「知」を一部の特権階級に閉じ込めたが、グーテンベルグの活版印刷と、ルネッサンスによるイスラム圏からの古代ギリシャ哲学の逆輸入が、オープンな近代科学コミュニティを育成した。生産が企業や国家に閉じ込められていた時代があったと、同じように振り返る時代がくるかどうかは、まだ決まっていない。その結果は、我々の世代に委ねられている。netの革命はまだ始まっていない。