本質と孤独

雪の大晦日になってしまった。

昼までGalapagosのメンバーと一緒にいた。2泊3日の打ち上げ昼飯中も、早くコーディングがしたいというコメントが飛び出していた。やっぱり、作っているもの自体が面白くて可能性を感じ、メンバーも有能で面白い人ばかりというのが、いいのかもしれない。

今年もいろいろあった。


時間の自由がきくようになったので、PICSYを携えていろんなところで話したり、文章を書いたりした。展示会も含めると、たぶん、1000人くらいの人と話したんじゃないだろうか。予想に反し、多くの人は好意的な反応を示してくれる。そうした活動をする前には、普通の人にはきちがい扱いされるのではないかとずっと思っていたし、実際にされた経験もあった。2002年度の未踏ソフトでデモソフトをつくり、概念をブラッシュアップしたのが効いているに違いない。

12月18日に慶応SFCでやったゲストスピーカー講演の様子がグローバル配信されている。real playerの最新版があれば、誰でもビデオを見ることができる。非常に簡単な利用者登録が必要だが、手間がかかるようなものではない。この講演は、もう一度きちがい扱いされてもよいと意図して話した。ぼくは常に、多くの人に賛同してもらえるがすぐ記憶から消え去ってしまうようなことを言うよりは、ごく一部の人の心に常に何か引っかかり残り続けるような言葉を語りたいと思っている。

ISEDのときはエジケンの、SFCのときには中嶋さんの心に、そうした引っかかりをつくれたような感じがする。何十人、何百人の前で話そうとも、それで十分だ。もともと知り合いなのが玉に瑕だが。

「言葉は、何かを伝えるものではなく、何かが変わるためのきっかけに過ぎない」と、以前ミスチルの桜井さんがインタビューで答えていたのを見たときに、ああこいつは分かっているやつだと思った。

伝えようと思って伝わらないと、そもそも伝えるということが何を意味しているかを考えねばならなくなる。そうしたときに、ただいま駒場学派が推進中の「運動としての言語」は示唆を与えてくれる。言葉は笑顔の延長である。

新しいアイデアを言うと、多くの場合聞き手の反応は猜疑心から始まる。同じか、それ以上の猜疑心が、言っている本人の中にもあるのであって、それを行動に移そうという気持ちが萎える。今年は、研究にしてもGalapagosとSTNにしても、最初の反応として、それはすばらしいから是非やるべきだ、一緒にやろうと言われた。遠慮なしのアイデアをぶつけたときに、そういった仲間と一緒に仕事ができるということは、とても幸せなことなのに違いない。

本質を追求することは孤独である。先日、アルマーニ中田英寿が対談をしていて、アルマーニがこんなことを言っていた。「たとえば僕が新しいトレンドを作ったとする。僕はファッション界で孤立するだろう。けれどそれを恐れちゃいけない。そうして、本当の仲間を見つけることができるから。」

今年は、夏場にすごい孤独感の中で奮闘した。旅の仲間が集まり始め、なんか報われつつあるなと思いつつ、年を越せそうだ。

それでは、みなさん、よいお年を!