チューリングの夢(森田真生氏特別寄稿)

今回のエントリーはチューリング生誕100周年特別企画で、数学者の森田真生さん(@orionis23)がゲストブロガーとしてPICSY blogに特別寄稿してくださいました。
アラン・チューリング、その魂の灯火」(鈴木健)と共にお楽しみください。

森田さんは京都在住の独立研究者で、福岡の糸島に数学道場「懐庵」をかまえる他、日本各地で講演活動を行っています。サルガッソーの立ち上げ時のメンバーであり、居候でもありました。彼に数学を習いたい人は、こちらから申し込みできます。

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幼年時代に何らかの理由で強いられた愛の欠乏による不安と孤独が、結果的にその人の中に偉大な数理的感性を育て上げてしまうという場合がある。母と子という、通常の生物学的次元ではかなわなかった交流を、より高次の宇宙的次元で達成しようとするかのように、壮大な数理的構想が企図されるのだ。

ニュートンは生まれる三ヶ月前に父を亡くした。母の方は彼が三歳になったばかりのときに再婚し、新しい夫のもとへと移ってしまい、ニュートンは祖母に育てられた。母に見捨てられた深いトラウマを背負わされたニュートンは「完全に死に根ざした世界観によって、迫り来る狂気を静め」*1 ようとするかのようにして、近代自然科学の基礎を独力でつくりあげた。

両親がともに急進的なアクティビストであったグロタンディークもまた、収容所の中で孤独な少年時代を過ごした。グロタンディークの自伝の中には、幾度も「母」や「母胎」という言葉が出てくるが、グロタンディークが構想したあまりにも広大な数学的宇宙は、あるいは「母」を探し求める旅そのものでもあったのかもしれない。

チューリングもまた、愛の欠乏を強いられた少年であった。チューリングの父はインドに赴任していた行政官で、チューリングは兄とともに、イギリスに住む退役軍人の家庭に預けられた。もともと元気で誰とでも友達になる子どもだったチューリングも、九歳になった頃には、夢想的で非社交的な性格に変わっていたと、後に母は述懐している。*2 生命と非生命、人間と機械という表層的な差異の向こう側に、両者を貫く数理的原理を見出そうとする執拗な情熱は、あるいは失われた母との温かな抱擁を求める、この少年時代の渇望のうちに育まれたのだろうか。

人間の寸法を超えて、宇宙的な想像力へと跳躍するために、人間の尺度における決定的な喪失が、その契機となる場合もある。「人倫を超過する者が人倫の師となる」*3 という言葉があるが、ニュートンにしても、グロタンディークにしても、チューリングにしても、まさに「天地の間にあって、人倫を超過」してしまった人たちだった。

チューリングは確かに機械を愛した。しかし、決して人間を機械に還元しようとしたのでも、人間と機械の区別を無効化しようとしたのでもない。チューリングにとって、機械と人間の区別は、はじめからそれこそ「なめらか」*4 だったのだ。

彼は三歳のとき、おもちゃの船に乗っていた木の人形が壊れてしまい、「こうすればきっとまた生えてくるよ」といって、その人形の足と腕を庭に埋めたことがあった。生命と非生命の表層の区別に頓着しない精神の傾向は、このときすでに芽生えていた。

決して社交的ではなかったチューリングは、気晴らしにひとりで黙々と走るのが好きだった。普段からかなりの長距離を走っていたようで、タイムをはかるのに、腕時計の代わりに腰に目覚まし時計を巻いて走っていたという話もある。彼が1936年の歴史的論文*5 の着想を得たのもまた、ランニングの途中、牧場の草の中に横たわっていたときだった。彼は この論文のなかでヒルベルトの決定問題を解決するために、LCM(Logical Computing Machine)を構想した。このLCMを”Turing Machine”と名付けたのは、1937年の5月に チューリングの論文を読んだチャーチである。

しばしばチューリングマシンは「紙と鉛筆を使って計算をする数学者をモデルにしている」という言い方がされるが、これは若干語弊があるように思う。チューリングの論文には、mathematicianという言葉は出てこない。あくまで紙と鉛筆と時間を資源に計算する人(computer)の計算過程を抽象化したのがチューリングマシンであって、数学者の計算過程をモデル化したわけではない。(実際、数学者チューリングチューリングマシンのアイディアに辿り着く過程は、チューリングマシンに似ても似つかないものだ。紙と鉛筆を使ってというよりは、身体と牧場の草を使って計算をしていたのだから。)

数学者の計算過程により近いのは、チューリングマシンよりも、むしろ1939年に出版されたチューリングの博士論文*6の中で導入された神託機械(Oracle machine, O- machine)の方かもしれない。チューリングはこの論文の中で、神託(oracle)を参照しつつ非決定論的な飛躍をする神託機械の理論的な可能性に(神託は機械的には実現不可能 であるというコメントとともに)触れている。

この論文の中でチューリングは、「数学的な推論は大雑把には直観(intuition)と創造性 (ingenuity)の二つの能力の組み合わせによって実現されていると考えられる」*7 とした上で、数学的推論から直観的側面を一掃することの不可能性を論じている。(数学から直観を一掃する代わりに、むしろingenuityの方を、enumerateされた命題のリストからの探索に還元してしまうことで、ingenuityをpatienceに解消してしまおうということがこの論文の中では議論されている。*8 patience, ingenuity, intuitionというこれら三つの概念についての考察は、その後のチューリングの暗号への関心にも繋がっていった。*9 )

こうした記述からも、チューリング自身が決して万能機械主義者ではなかったこと、人の知性には本質的にチューリングマシンに還元不可能な側面があることを信じていたことが分かる。人間の知性に、チューリングマシンに回収不可能な側面があることを認めた上で、機械と人間の知性をなめらかに接続する夢を追い続けたのである。

チューリングの業績の詳細について議論をするには僕はあまりにも不勉強だが、チューリングのことを知れば知るほど、彼が一貫して世界を「なめらか」に把握していた人であったことが実感されてくる。人間を機械に還元しようとしたのでも、生命を非生命に還元し ようとしたのでもなく、彼は人間と機械、生命と非生命、さらには男性と女性という様々な区別を前にして、常にその表層的な差異の彼方を見つめている人であった。

腰に目覚まし時計を巻いて、長距離を孤独に疾走しながら数学的思索に耽ったチューリングは、心と自然、さらには人間と機械とが、なめらかに接続される日がくることを夢みていたに違いない。

チューリング誕生から百年を迎え、僕らはチューリングの恩恵に与りながら、いまやチューリングが生きたのとはまったく違った環境に取り囲まれている。それ自身決定論的なアルゴリズムに支配されていながら、人間の検索を「神託」として、問いに答えるというよりも、答えに相応しい問いを計算し、膨大なデータの「意味」を計算し続ける検索エンジンはまさにチューリングの神託機械のようであるし、ウェブそのものが、自然現象を神託とする巨大なO-machineを形成しつつある。ここでは、チューリングの意味での計算概念をいかにして超えていくかということが、いかにもリアルな問題になってくる。

それにしても、チューリングという巨大な天才を誰よりも真剣に乗り越えようと格闘したのは、あるいはチューリング自身であったのかもしれない。

そのチューリングを乗り越えようとするならば、表層的な二項対立の彼方に「なめらか」を見つ続けたチューリングの眼差しを、僕らはますます深めていかなければならないだろう。

いつの日か、僕らの心と自然と機械とがついになめらかに接続されたとき、僕らは自分たちの母や恋人とだけでなく、森や川や、さらには鉱物や機械とも、宇宙大の想像力で、温かな抱擁を交わすことになるだろう。

チューリングが乗り越えられたとき、はじめてチューリングの夢は達成されるのである。

*1 『デカルトからベイトソンへ』モリス・バーマン
*2 『甦るチューリング』星野力
*3 『十善法語』不邪淫戒
*4 PICSYブログの読者のみなさまには「なめらか」で通じますよね?
*5 “On computable numbers, with an application to the Entscheidungsproblem”
*6 “Systems of Logic Based on Ordinals”
*7 Mathematical reasoning may be regarded rather schematically as the exercise of a combination of two faculties, which we may call intuition and ingenuity.
*8 We are always able to obtain from the rules of a formal logic a method of enumerating the propositions proved by its means. We then imagine that all proofs take the form of a search through this enumeration for the theorem for which a proof is desired. In this way ingenuity is replaced by patience.
*9 “Turing’s Cathedral” George Dyson