ISED鈴木謙介の論文について

今日はISED理研の第一回で、事前に委員には鈴木謙介さんの論文が送られてきた。ぼくは倫理研のメンバーではなく、設計研のメンバーなので、今日のISEDにはオブザーバー参加となるため、研究会がはじまる前に参考意見を述べておいて、よりよい議論の助けにしたい。

創発性への信頼】

鈴木謙介氏の議論によると、システム理論によるネットワークの創発特性は、アダム・スミスリバタリアンの議論と同じであるという。

議論がおかしいと思ったのは以下の理由による。システム理論は、特定の思想に肩入れするのではなく、ありとあらゆるシステムを説明しようとしている。ありや群体の話は珍しくて面白いからみんなするのであって、別にそれがすばらしいなどとは、研究者は誰も言っていない。(けど、専門書を読まないジャーナリストや一般書しか読まない読者が、鈴木謙介さんの言うとおり、そう信じているのは確かかもしれない)

【所有権】

鈴木謙介氏は、

所有⇔共有

という軸で、オープンソース運動と地域通貨を同類とし、まとめてプルードン的中間集団主義としている。

しかし、それはおかしい。むしろ、

私有/共有⇔公有

という構造が、現在起きていることをもっとよく表しているように思う。

鈴木謙介氏は、所有⇔共有という対立構造をとるが、ここでは所有のかわりに私有という言葉を使うべきで、私有と共有と公有をあわせて所有権の諸概念とした。

GNU General Public LicenseがGNU一般"公衆"利用許諾契約書であることを思い出そう。ここにおいては、共有は私有の一種である。GPLは、共有(という名の私有)を認めていないのが特徴で、GPLの伝播性はそこから要請されている。OSIのopensourceの定義においても、目的や集団の特定によって使用を排除してはならないとされている。

(一方で、共有地(commons)の悲劇というように、共有(com)が公有(public)の意味として使われることがあるのでまぎらわしい。これは排除なき共有は公有であることに由来するだけである。)

【コスモポリタニズム】

GNUwikipediaのようなオープンソース的行動が、氏の議論とは逆に、プルードン地域通貨のような共同体主義とは遠いということは、上の議論で明らかになったが、では公有をベースとする保守主義と相性がいいかといえばそうではない。むしろ、オープンソースコミュニティやレッシグは、コスモポリタニズム(世界市民主義)に近いのである。

 国家といえども国際環境においては、ひとつの共同体に他ならない。それに対し、環境主義国境なき医師団などの国際NPOは、国家自体を相対化した上で、コスモポリタニズムに基づく思想を形成している。オープンソースコミュニティやレッシグはこれに近い。

 全般的に、氏の議論は、ドメスティックな議論しかしていない(そういう意味でカントを除く19世紀以前のスキーマしか議論をしていない)。もっと議論に国際関係論的な視点をいれるべきだろう。

そして、コスモポリタニズムにとっては、ローカル共同体や国家が相対化されてしまい、静的なコミュニティは単なる利益(既得権益)集団にしか見えず、違和感を覚えている。そのため、コスモポリタニズムとプロジェクト主義(=目的のために集まる集団)を背景にした動的コミュニティ主義が生まれてきた。氏の定義する創発主義は、こっちのコスモポリタニズムに分類すべきであろう。

氏の議論における、保守主義共同体主義リバタリアニズムという三項に、コスモポリタニズムを加えると、保守主義共同体主義が一種の同盟関係を結び、リバタリアニズムとコスモポリタニズムが同盟関係を結んでいるように見える。

リバタリアニズムやコスモポリタニズムにとって共同体はゲゼルシャフト的であり、保守主義共同体主義にとって共同体はゲマインシャフト的である。この違いは、共同体の同一性を静的にとらえるか同的に捕らえるか、多重帰属を認めるか否かという思考に影響を与えている。

【時間概念】

さらに、氏の保守主義についての議論から抜け落ちているものが時間概念である。氏は、保守主義を既存の社会を維持しようとする主義と考えているが、実際にはもっと微妙な話である。

そもそも、保守主義の起源はバークの「フランス革命についての省察」であることは、衆知の通りだろう。タイトルから推察できるとおり、保守主義は、近代市民革命のアンチテーゼとして、相補的に双子として生まれたのである。

保守主義が嫌うのは合理的な判断のみによる"急激な"革新であって、経験/歴史と合理性を合わせた漸進を擁護する。このような保守主義の特徴を無視すれば、保守主義が常に敵に意見を取り込みながら成長してきたことを説明できないだろう。

時間と経路の概念が、氏の分析からは全般的に抜け落ちているのである。したがって、研究会においては、各思想の時間感覚(位置、速度、加速度も含む)自体が時代によってどのように変化していったか、という分析があると非常に面白いと思う。

時間概念の分析は、古くはヘラクレイトスとそれへの反論から、最近においては丸山真男においても見られるが、ここでいいたいのはそれとは異なる。時間概念は、近年においては、力学系によってはじめて自然科学の対象とされはじめてきた。力学系における時間のようなナイーブな議論が展開されることを期待したい。

【民主主義の精神について】あまり重要でなし

民主主義の精神というタイトルのわりには、民主主義についての言及が少ないように思う。

ウェーバーの場合は、プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を支えたという話で、宗教が近代社会システムを生み出したというショッキングさを売りにしていたわけだけど、情報社会の倫理が民主主義の精神を支えたとしても、あまりショッキングさがないなあ。

【最後に】

GNU GPLと新しい社会契約論にはやはり関係があるという確信が芽生えた。

・情報社会の倫理が、実は大学院における科学者コミュニティの中にあることは、すでに「オープンソースの本質」というエントリーで分析してあるので参考にしてほしい。

鈴木謙介氏の論文を読んで、いろいろ思考がまとまった気がした。こういった研究会の価値はあるなあと思う。