ケインズ以来

NHKの「日本の、これから 格差社会」を見て思ったこと。

ホリエモンをはじめ、経営者として成功した人たちには、「みんな努力が足りないんじゃないの?」「いまで十分機会がめぐまれている」といった言説がみられた。

いや、まあ実際そういう人もいるかもしれないが、それだけでは職にありつけない理由の十分条件にはならない。

ケインズの天才は、それまでの経済学者がミクロばかりに注目していたところに、マクロな経済現象というものが存在することを見出したところにある。(彼がそういう視点に立つことができたのも当然で、最初の仕事は確率の哲学であった。もっとも初期の数理哲学の研究と後の経済学の研究に直接のつながりを求めすぎてもいけない)

彼は、ミクロに全ての人が努力をしたとしても、職にありつけない人がでてくる非自発的失業という現象を発見した。努力しても職にありつけないのだから古典派のレッセ・フェールは間違いで、国の責任だとしたのである。

たとえば大学受験を例に考えると、志望者数が70万人いて、大学の定員が60万人しかないなら、全員が鬼のように努力しても10万人は大学に入れない。自明の理である。ケインズは、経済活動におけるこの大学の定員のようなものを有効需要と定義し、国が有効需要を制御しなければ失業率は下がらないとしたわけだ。(その後、リバタリアンマネタリストなどの反対意見がでることになる)

ケインズ以来、経済学の世界では、ミクロで成立する現象がマクロでは成立しないという例が数多く見つかっている。それらのいくつかはパラドックスと呼ばれているが、よく考えれば納得できる現象ばかりである。

冒頭の「日本の、これから 格差社会」の出演者たちは、ミクロな仕事師としての能力は高いのだろうが、経済政策はお任せできないかもしれない。(ホリエモンが「相続税100%でいい」とか言っているのが面白かったけど。)

このように、スケールを間違えて議論することをドメインスケールミステイクと呼ぶことにしよう。

NHKの番組制作方針としては、社会的格差を社会論として展開させようという意図があり、その辺の配慮はしっかりあったようだが。)

マクロとミクロで結論が異なるというのは、よくあることだ。たとえば中絶を議論するときに、それが、社会一般としてなのか、日本の政策としてなのか、自分の身内が中絶したいと言ったときなのか、自分が中絶するときなのかによって、結論はすべて変わってくることはよくある。

繰り込み群とかスケールフリーとか流行っているが、これらはスケールを問わずして、同じ法則が成立するという例外である。