識字率

識字率をあげるがごとく、すべての人がプログラミングをして、自分のためのメディアを創造できるようになる」というアラン・ケイの野望について考えると、当然、識字率の歴史と現状が気になります。

ここに、アジア太平洋の各国の識字率のグラフがあります。

http://www.accu.or.jp/shikiji/overview/ov04j.htm

また、世界各国だとこんなデータがあります。

http://www.stat.go.jp/data/sekai/pdf/1606.pdf

パキスタンバングラディッシュ、最近サッカー日本代表ユースが対戦したベナンは40%くらいしかありません。ぼくが行ったことがある国だと、ネパールが48.6%と半分以下です。

こういう状況で、字も満足に読み書きできないのに、ましてやプログラミングさせるというのは、いかに遠い話かというのがわかります。アラン・ケイ自身は、150年スパンくらいで考えているようです(革命がおきるまで150年ということなので、世界に普及するまではさらに数百年を要するでしょう)。

今度は歴史を見てみましょう。ここに、18世紀のフランスの識字率のデータがあります。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/source/y.html#yomikaki

ロシアや中国も、つい最近まで識字率が非常に低かったようです。

以上のことから分かるとおり、歴史上、文字を読み書きする必要性は生活上ほとんどなかったことになります。豊臣秀吉なんぞは、それでも天下をとってしまいました。みんなそれでも暮らしているのです。当然ですが、今の世の中では、プログラミングをする必要性は生活上ほとんどありません。

アラン・ケイはそれを最初からわかっていた節があります。プログラミングを含むコンピュータ教育を、高校三年生からではなく、義務教育として小学生からやらせようと思っていたようです。むしろ、小学生からやらないと身につかないと思っていたようです。(逆に就学するまではコンピュータに触らせるべきでないとも言っています。もっと学ぶべきものがたくさんあるからです。)

人間は、高校生くらいにもなると、ものごとを必要性で判断します。そうなってはもう遅いのです。また、判断の問題だけではなく、文字の読み書きは、大人になってからだと絶望的に身につきにくいそうです。書き言葉だけではなく、言語能力一般も同様です。これは悲しい現実ですが仕方ありません。アラン・ケイの言う「コンピュータ・リテラシー」も子どものときに身につけるべきでしょう。

子どもの恐るべきところは、必要性などという理屈を通り越して、新しいメディアと接触し、それを遊び、受け入れることです。言葉を話すこと、書くこと、絵を描くこと、歌を歌うこと、踊ること、これらはすべて創造的な遊びであり、「コンピュータ・リテラシー」もその末席に名を連ねることになります。

日本の教育制度で、国語、算数、理科、社会、コンピュータという科目構成になるのは期待できないでしょう。シンガポールのようなどこかの小国や、アメリカのどこかの州で、トップダウンに実行されて、それが驚異的な効果をもたらすようなことが起きれば、横並び的に導入するようになるかもしれません。

必要性は後からつくられるのです。