なめらかな建築とその敵

彼らが造り上げたものは、自然より自然らしい自然であった。

そして感嘆すべきことは、彼らは意図して造ろうとしていたことである。

彼らとは、荒川修作とマドリン・ギンズという二つの身体、そしてそれらをとりまく細胞40億年の歴史と30年のコンテクストの総称のことだ。

今日、ぼくは岐阜県養老駅に立っていた。養老の滝をわき目も振らずにめざしたのは、彼らが造り上げた一連の建築群「養老天命反転地」であった。万博の影響か人の入りの少ない場内で、昼前から閉園までたっぷり6時間も過ごしてしまった。

建築の力を知った。

園内にはいくつかのパビリオンが点在している。メインとなるのは「極限で似るものの家」と呼ばれる住宅と、楕円すり鉢状の大きな庭である。

入り口で渡されるパンフレットには、荒川とギンズによって提案された「養老天命反転地の使用法」が細かく書かかれている。どの場所でどのように振舞えば、より効果的に味わえるかが指示されている。たとえば、

「切り閉じの間」を通る時は、夢遊病者のように両腕を前へ突き出し、ゆっくりと歩くこと

「想像のへそ」の中や外では、後ろ向きに歩くこと

といった具合だ。だまされたと思ってその通りに振舞うと、確かに身体の知覚が壊れていく。あとで二度三度探索すると、知覚を作り直すために緻密に壁や床の形が考えられていることに気づく。

2時間も園内を歩くと、知覚がかなりおかしくなる。すり鉢状のフィールドは、物理的にはけっこう狭いのだが、ずっと歩き回ると、場所によってものすごく広く感じたり、狭く感じたりする。ここの位相はまったくゆがんでいるのだ。方向感覚がかなり狂ってしまうが、すぐにそれを楽しむことができるようになる。

あらゆる場所がはじめてきた場所のようだ。二度きた場所も新しい風景が広がっている。歩くたびに発見がある。フィールド内を放浪するとビークルの気分が味わえる。ロボットやっている人はぜひ来るといいだろう。

あきることはない。J.J.ギブソンの言葉を使えば、包囲光配列(ambient array)が圧倒的にリッチなのだ。わずかな身体の運動が、まったく違う世界を生み出す。このリッチな包囲光配列は、「自然」には存在しないほどだ。彼らの30年の研究の成果なのだろう。

われわれが40億年重力を受け続けていることを、彼らは圧倒的に利用しているものの、宇宙での建築に非常にマッチしているように思う。

この建築群は、ぼくの言葉を使わせてもらえば、なめらかな建築である。interiaとexteriaがなめらかに反転している。溝とでこがなめらかに反転している。フラットでもステップでもない。もちろん、フラットやステップをいくらでも見つけることはできるが。

荒川は、まっすぐだ。とてもまっすぐだ。懲役を恐れないくらいまっすぐだ。

彼の敵は世界史である。それはぼくも同じだ。

同じ敵と戦うということは、同じ戦略を採用させる。

彼は建築(architecture)を選んだ。ぼくはコンピュータ・アーキテクチャを選んだ。

どちらも世界への知覚を作り直すためだ。

荒川がフラジャイルなものへの微細な感覚がないのではないか、というのは杞憂だった。「死なないために」は、「ひと」として生きなければよい。宿命を反転させる(reverse destiny)とはそういうことであって、単純な生の讃歌を意味しているわけではなかった。

批評は、時にその作品を殺すことになりかねない。

作品は作品として、実際に身体を通して経験されねばならない。批評に満足してしまって読者が足を運ばなければ、批評は罪を犯したことになる。絵画でも詩でもなく、身体の運動を生活の中でダイレクトに駆動する建築を志向したことこそが、彼らの計画の本質であるが故になおさら。

しかし、大学時代の友人の藤山剛の言葉を借りれば、よい批評とは常に誉める批評である。批評によって読者が作品と直接向かい合うきっかけを作るのであれば、それはよい批評であろう。

言語の意味はその使われ方によってつくられる。冒頭の「自然より自然らしい自然」の3つの自然は、当然、そう配置されたことによって異なった意味をもつ。そうして獲得された三番目の自然を、現地に足を運ぶことによって体験してほしい。そして、それが単に新たな自然というだけではなく、自然それ自体への志向であるということが、感動の源泉なのである。

この知覚も、数日もすれば元に戻るだろう。しかしそれが彼らの限界だとは思わない。いかなる環境でも同じ身体の運動をつくるためには、むしろ言語的教条が必要である。建築という弱い方法に頼るが故に価値がある。そしてだからこそ、日々の日常生活に導入するために住宅革命がめざされているのだろう。

では、毎日いれば違うのだろうか。閉園間際のころ、涼しくなってきた風を胸元にいれながら、楕円状のフィールドを見回っている警備員のおじさんに気になって聞いてみた。

「毎日ここにいて、知覚は変わりましたか?」

「いやー。変わらんよ。新しい宗教にやられるようなやつは、ここにくるとぐらぐらするようじゃが。わしゃ、仏教だし。ご先祖様、仏様を大事にしなくて、どうするの。」

戦いはまだまだ長そうだ。