数学の認知的基礎付け

水・木と「認知言語学の哲学的基礎付け」という国際シンポジウムがあったので、金曜の午後に、"Where Mathematics Comes from: How the Embodied Mind Brings Mathematics into Being"という本を認知言語学創始者のレイコフと共著で書いたNunezのセミナーがあった。

6時からGLOCOMフォーラムの顔合わせのために六本木にいかねばならず、泣く泣く途中で席を立った。ちょうどカントールの説明がはじまったあたり。全体としては、無限の概念がどう身体的に認知されるかという話のようだったので、最後まで聞きたかった。

いやー。このテーマ好きなんだよね。

数学の基礎付け問題は、ここ百数十年の科学の中心トピックのひとつだった。ヒルベルトは数学を数学自体によって基礎付けしようとしたが、ゲーデルによって挫かれ、チューリングによって世界のなんらかの操作との関係づけにされた。

複雑系の問題を真剣に考えると、物理の法則や数学の公理をどう捉えればいいか、真剣に悩むことになる。(別のコンテクストでも真剣に悩むことになりうるけど)

世界を構成されたものとしてみるのはいいんだけど、あの数学や物理の美しさやすさまじさは、一体どこから来るのだろうか、そこまで疑ってしまっていいのだろうか。

ぼくのいまの考えは、数学はコミュニケーションが独我化したものの極地というもの。数学は言語だから、コミュニケーションから議論を出発しなくてはいけないんだけど、チューリングは最初から独我的数学者をモデル化しようとした。でも実際の数学者は脳の内部でコミュニケーションをしている。

このコミュニケーションとしての数学という考え方については、以前ちょっと触れた

現象学的、主観的存在のコミュニケーションから数学が構成されるとして、じゃあ、数学の普遍性はどうなんだろうという話になる。

こいつを議論するためには、objectivity(客観性)とuniversality(普遍性)を分離しなければならない。この二つの概念は混同されがちだ

objectivity(客観性:言語によって媒介された概念:数学とか)

subjectivity(主観性:身体化された主体の内観)

universality(普遍性:世界の法則:物理とか)

世界をこのような構造をもっているものとして捉えよう。objectivityは、あくまでもsubjectivityの上に成り立つ。そのobjectivityがuniversalityを言及する。言語としての数学が物理の世界を言及するように。だから、数学はobjectivityの世界で、物理はuniversalityの世界にいる。

これってプラトンイデア論じゃん、と最近気づいた。最近、プラトンばっか読んでいるからなあ。なんかぐるぐるまわってるなあ。

universalityをイデアと捉えよう。subjectivityが牢獄の窓から差し込む光で、objectivityは影だ。コミュニケーションとしての光は立体化した影を作り出す。そして、こいつはイデアへの言及となる。

影をみたときに、そこにイデアを見るか光を見るかは自由だ。イデアを見る人には数学に普遍性を感じてしまい、光を見る人には数学に人工的・構成的なものを感じてしまうだろう。

最終的に数学を構成できなければ、ぼくの研究はうそだと思って研究してきた。だから、いまは心の理論について考えているけど、コミュニケーションが必然であるこの地点から数学までもっていかなきゃいけないと思っている。

途中に言語という難問もあるし、いつまでかかるやら。

死んじゃうよ。