東浩紀さんのセミナー『情報社会における「自由」とは何か』を聞いて

昨日は、GLOCOMで東浩紀さんのセミナーを聞いて、その後1時間くらい議論してきた。

実は、ぼくが東さんの処女作の「存在論的、郵便的」を読んだときは、最初の20ページで落ちが分かってしまって、最後まで読んで、やっぱり予想通りだったのでがっかりした覚えがある。まあ、この手の本は、哲学における私小説みたいなもので、落ちで評価するのではなく、プロセスを評価すべきなので、ほんとは間違っているのではあるが、実際それほど評価しなかったのは事実だ。

ところが、今日のセミナーを聞いて、結構面白かったので見直した。自由の問題をリベラリズムリバタリアニズムの問題として概括するという内容だったが、僕の中では概念整理ができたのがとてもよかった。

僕的に今日の議論をまとめて、さらに僕の拡張をいれると、次のようなことになる。

時代 自由 public community
company
commons
private 気持ち
(新しい)中世 リバタリアニズム comと呼ばれる
●○○○○ ●●●○○ ●○○○○ 楽しい
近代 リベラリズム privateと呼ばれる
●●○○○ ●○○○○ ●●○○○ 厳しい

要するに、パブリックとプライベートの分離独立を重視するリベラリズム的視点と、コミュニティの価値を重視する(というよりもプライベートの延長線上、必然的に重視されてしまう)リバタリアン的視点を対立してみているわけだ。MLとか掲示板とかソーシャルネットワークとかコミュニティとかblogとかいう連中は全部リバタリアンに分類される。これはとても分かりやすい。

あと、物理論的還元論、計算論的還元論、現象論的還元論の3つをどう折り合いをつけるべきかという話をしたときに、東さんが即座にイーガンの「順列都市」の話を出してきたのは、センスの良さを感じる。本人は人文系の人間だからといつも謙遜するけど、なかなかどうして本質的な理解力をもっているようだ。

まだたたき台だけど、いまのところこんなイメージだ。

自然哲学的還元論 名指し 決定論 自由論
物理論的還元論 匿名的 属性ゼロ public (限定的)決定論
計算論的還元論 差別的 属性 community (無制限)決定論 選択
現象論的還元論 固有的 世界的ユニークネス private 自由意志

最終的には、リバタリアニズムリベラリズムは、立体的にねじれた構造で構成されており、あくまで傾向にしかすぎないため「バランス」という言葉で回収されてしまうイデオロギー用語なので、政治哲学の基本用語でまとめあげるのは限界がある。

最終的にはネットワークトポロジーの問題になるのではないかと思っている。常日頃から政治哲学の問題を定性的な議論ではなくてシミュレーションか数理モデルに落として、メッセージの「表現型」として使いたいと思っていたので、これはやる価値がありそうだ。とりあえず、タイトルだけ決まった。

「コミュニケーションネットワークトポロジー自由主義の起源」

実際には、情報社会における「自由」の問題は、混沌としたままプラクティカルに話が進んでいって、そこそこ問題がありながら、そこそこ許容できるという風になるだろう。コミュニティの重要性の拡大が、近代的な「開かれた社会、開かれたコミュニケーション」を阻害する要因になることは、次の2つの理由で現実問題としてそれほど大きくならないのではないか。第一に、グローバリゼーションがもたらすのは、完全に閉ざされたコミュニティの経済的価値を下げることをもたらし、選択圧を形成するであろうこと。第二に、子供にとって常に世界は開かれているわけであって、日々の学習と成長は驚きの連続である。その時代に多少近代的な概念で鍛えておけば、大人になってコミュニティ的なものに没頭しようとも、最終的なレベルで多様性へのオープンネスは確保されるのではないだろうか。

第一の点については、結局、島と島をつなぐ商人がごく少数生まれるだけなのではないかという反論もあるだろう。第二の点については、最終的なレベルではなく、日常的なレベルでの他者への疎外が問題とされるべきだという反論もあるだろう。

こんな適当な文章が書けるblogというメディアはありがたし。