概念空間

200年前のカヘイといえば、高田屋嘉兵衛だ。。。

落ちになっていないので先に進む。昨日のゼミはPeter GardenforsというLund University Cognitive Scienceの教授のConceptual Space(概念空間)について扱った"Representing actions and functional properties in conceptual spaces"という論文だ。preprintなので、どこにも落ちていないだろう。

かれのConceptual Spaceは、かなり強い主張をしている点で面白い。まず最初に、彼はConceptual Spaceの基底を実数多次元空間としてイメージしており、Natural Conceptはその中に占める領域として定義される。コホネンの自己組織化マップなんかをイメージするといいだろう。ここまでは誰でも考えることだが、そのNatural Conceptの個々の領域は、凸集合であるというクライテリアを主張する。凸集合の要請というのは、結構強い要請で、任意の2点が同じConceptだとすると、その間も同じConceptになる。

これで問題になるのは、基底をアフィン変換(線形変換+平行移動)した場合に、凸性も保存されるので、アフィン変換で到達できる任意の空間で凸性が成立してないとすると、凸性のあるカノニカルな空間をはれなくなってしまう。

たとえば、色というNatural Conceptは、RGBでも表現できるし、色相、彩度、明度でも表現できる。この変換がアフィン変換なのかどうかは知らないが、もしそうなら、適当な基底をとって凸性かどうかを調べることによって反証可能性のあるモデルになるということだ。

ちなみに、凸性というのは、もっともで、おそらく工学者が最初に考えそうなモデルだ。凸性なんて成立しないだろうとみんな考えている中で、こういうことを主張するのは驚きだ。

次に彼は、Natural Conceptだけでなく、Functional Propertyもaction spaceにおいて、convex(凸)だということを主張する。action spaceはforce(つまり加速度)によってはられる空間としてイメージされている。これも強い主張だ。

最後に、彼は3人称的な視点のforceが先にあるのではなく、1人称的視点のpowerが認知的に先行するという。これ自体はいわれてみりゃそうだろ、という現象学的還元をしているにすぎない。しかし、彼の議論のオリジナリティは、ベルクソンと比較すると明確になる。ベルクソンは、「時間と自由」の中でintension(内包)とextension(外延)の問題について触れ、intensionをextensionのメタファーでとらえることに対して否定的だ。たとえば、代表的なintensionである「喜び」を量として表現して座標をはるなんてことに反対なわけだ。intensionには質的なものがあり、質を量に還元することを批判する。

一方、Gardenforsは、intensionのほうが本質的であるという点ではかわらないが、なんと、intensionはextensionと同じ性質をもっていると主張しているのである。ここからはぼくの拡大解釈だが、神経回路の中にintensionがそのようにして存在するために、extensionがそのようにしてみえる、ということだろう。彼のモデルには内面世界の深遠さが、あたかも存在しないかのようだ。