松岡正剛さんとの出会い

日付がかわってしまった。今日、FTEXTの吉江くんと飲みにいったら、七夕に何か思い出があるのだろうと言われたが、そんなものはない。松岡正剛さんが千夜千冊の最後の夜として七夕を選んだので、彼について語ろうと思っただけだ。ただ、日本人にとって、七夕はクリスマスやバレンタインデー以上にロマンチックな夜のはずだ。

彼との出会いは全部で三度ある。

最初の出会いを提供してくれたのは、当時通商産業省の官僚で、いまは参議院議員鈴木寛さんだった。奥村くんという友人を介して霞ヶ関の近くの喫茶店で話をしたときに、なぜか鈴木さんはぼくに目をつけてくれて、松岡正剛を塾長、鈴木寛を塾頭とする秘密の塾に入れてくれた。1997年12月である。半蔵門の高級マンションの一室で、日本についての勉強をするという趣旨で月に一回開かれるその不思議な会合は、半塾とよばれていた。30代以上が参加条件というクローズドな勉強会で、官僚やビジネスマン、研究者が十数名集まっていたが、21歳だったぼくも事務局員ということで入れてもらえた。かわりに議事録のテープ起こしを何度か十数時間かけてやったりもしたものだった。

鈴木さんから招待されるまで松岡正剛という人物の存在を知らなかったぼくは、大学院入試で忙しいからという理由で一度断ったのだが、友達から松岡正剛はすごい人だから断るのは馬鹿だといわれてあわてて鈴木さんにメールを送った。

松岡さんの面白さは、その口から紡ぎだされるときにその真価を発揮するというと、本人から怒られてしまうかもしれない。日本において貨幣がどのように扱われていたかを語るとき、彼が参考にしていると思われるいかなるよりも面白く聞こえるのだ。

彼は「物語」という言葉を多用した。当時、複雑系研究の端緒についていたぼくは、「そうか、すべては物語なのだ。物語についての理論をつくらねばならない」と間違っていない早とちりをしたものだった。

ぼくが伝播投資貨幣(PICSY)という荒唐無稽なお話を臆面もなく繰り出すのは、経済活動とはすなわち物語であるという強い信念をもっているからだ。今日はそんな話をしたかった。

松岡さんの異常なまでの博覧強記ぶりは、ぼくを読書欲にひきたてた。いつか彼を超える博覧強記になろうと思って乱読したが、2年くらいであきらめた。どうがんばっても勝てないことが分かったのと、ぼくは本を読まないというポリシーで生きてきたので、やっぱり自分の道を徹底したほうがいいと思ったからだ。

次に松岡さんと会ったのが、国際学生シンポジウムというインカレサークルである。当時すでにぼくはそこのOBだったが、MLでシンポジウムの基調講演の講演者をリストアップして検討しているので、松岡さんを推薦した。その控え室で会ったのが二度目である。

三度目の出会いは、茂木健一郎さんつながりだ。当時、SONY CSLで茂木さんの弟子をしていたぼくは、茂木さんから「松岡正剛って知ってるか? 今度会うことになったんだけど、この人っていけてるの?」と尋ねられた。とある女性が松岡さんと茂木さんの間を仲介して、マンションで小さな夕食会が開かれた。茂木さんは、ぼくともう一人、女の子を連れて行った。その女の子は、ぼくが主宰して茂木さんを誘った国際学生シンポジウムの分科会で出会った共通の友人だった。彼女は、独特の繊細さを持ち合わせいた。松岡さんと茂木さんとホストの女性が、彼女の微細さを愛でるように耳を傾けていたのを覚えている。

あの時あの空間にいた四人は、彼女の壊れやすいクリスタルと触れ合うように音をつむぎだしていた。

そう。彼は「フラジャイル」という本も書いている。日本語にすると、もろさ、儚さ、壊れやすさとでもいうのだろうか。そんな彼が良寛を千冊目に選んだ

PICSYのモデルがある程度できて、これはぜひ松岡さんと話したいと思って、1年前に編集工学研究所にメールを送ったが返事はこなかった。きっと雲がかかっていたんだろう。