物価と認知

このblogでも、何度か貨幣と物価の問題について触れているけれど、昨日のIPAXでも議論になり、ようやく言語化できるようになってきたので、書いておこう。

貨幣供給量×貨幣の流通速度に対する価格の比率は、相対的な値であるが故に、現在の貨幣においてもすでに、価格とは相対値であるといえる。しかし、実際に「価格」が行ってる仕事とは、サプライチェーンの経路中で、会計上の仕入原価と販売価格の差額を明確にすることによって、企業単位での部分最適を計算しやすくすることなのである。

問題は、仕入れと販売をB2Bで繰り返していくサプライチェーンの中で、有限の時間が経過することである。完璧な無在庫経営をすべての会社が行う夢のサプライチェーンと、生産時間がゼロであるという2つの条件を設定した場合のみ、サプライチェーン全体の経路中の時間はゼロになるので、このような問題は起きないが、全く現実的ではない。

こう書くと難しそうに聞こえるが、20円で仕入れて21円で売ると差額が1円であることを経営者が容易にイメージできるということが、絶対値としての価格の重要な性質であるということだ。相対値では、このような性質が失われる場合があり、部分における価格が、経済全体の影響を受けてしまうために、経営者が企業という部分において正しい判断をしているかどうか、おのおのの経営者自身で判定できなくなる恐れがある。

ゆるやかなインフレが、安定した経済システムにとって必要であるといわれるのも、このロジックで説明できるのではないかと考えているが、まだまだ議論を要するだろう。

赤字と黒字の差は、たとえ2円だとしても、人間の認知的に圧倒的な違いがあることを忘れてはならない。

PICSYにおいては、貢献度ベクトルは実体ではなく単なるビューでしかないので、適当なインフレ率を貨幣供給量を設定するかのように設定することによって、個々の事業者が健全な経営をしていることを安心してもらえるだろう。

相対値のPICSYでは、毎時、半分が勝者であり、半分が敗者である(これにはかなり乱暴ないくつかの仮定がひそんではいるのだが)。経済活動の健全さにおいては、80%が勝者であり、20%が敗者であるような適度なバランスが必要であり、インフレはそのために必要なのかもしれない。

というようなことを、今日マイクロソフトの方と話した。

しかし、メニューコストも含めたこれらの認知的なギャップを、人々が乗り越えることができるのであるならば、PICSYの供給量は人口に比例させればいいのであり、強制インフレは不要である。このメニューコストも曲者だ。認知ギャップの乗り越えは、人に神となれと要求するくらい無理なのかもしれない。