池上さん芸大講義

茂木さんが芸大に講義をもっていて、一年に一回くらい池上さんが講義をするというので、上野の芸大まで行ってきた。講義のタイトルは"subtle,motion,precision"。日本語にすると、"ちょっと、運動、精度"ということになる。

熱力学とは「自然には変化する方向がある」という学問であるということから始まって、主観的なことほど数学にのるのではないか、免疫ネットワークにおけるselfの境界、認知における精度、agencyとownership、active perceptionなど多岐に渡ったが、授業の終わりに芸大の教授が「伝説が生まれてしまった」というほど理解されなかったようだ。

講義自体はつっこみによる脱線で、まとまりがなかったが、precisionが異なると、こういうことになるというのをパフォーマティブに体現しているようでもあった。

今回の講義では、池上さんは、言葉を放り出すことによってアーティストが感じたことを受け止めたい、という意図があったようだ。それは、必然的に一次元的ではありえない。しかし、言葉をあくまで自分の体系の中で回収しようとする人が、ひとつひとつの細かい言葉に反応することによって、放り出された言葉を殺してしまったようにも思える。池上さんは、体系への回収ではなく、コミュニケーションのゆらぎを求めていたんだと思う。

Mr. Childrenの桜井が以前インタビューで、「メッセージが伝わるというのは全く期待できない。むしろメッセージは何かを伝えるためではなく、何かが変わるきっかけにすぎない」と言っていた。こいつはほんとに分かってるなあ、と妙に関心した覚えがある。シャノンの情報理論ルーマンのコミュニケーション理論に欠けていて、オートポイエーシス力学系的コミュニケーションモデルにあるのはこの視点だと思う。

池上さんは、講義の中でアーティストを「自分なりの世界の切り出し方があって、それを世界にもう一度放り出してあげること」を行う人と定義していたけど、そういう意味では、今日は、科学者池上高志というよりも、アーティスト池上高志としてのぞんだのだろう。

惜しむべきは、聞き手にとって、身体が同一であることによって存在の同一性を仮定してしまい、そのような存在のゆらぎを許容させなかったところにある。そうした圧力のなかで、多くの人間はその可能性を縮減させてしまい、つまらない人間になっていくのだ。

そしてつまらない人間がつまらない人間を再生産していく。そんな中で迎合せずに頑張って生きていくのは、孤独で孤独で、どうしようもないのだけど、だからこそprecisionが一致した出会いがあるときの喜びは計り知れない。

最近、Liveを歴史に回収する罪がふたつあるように思う。ひとつは、理解していないものを理解したものと考えてしまう罪であり、コミュニケーションのゆらぎを無くしてしまう。もうひとつは、他者が物事を理解していくプロセスを、すでに歴史上踏まれた地として解釈してしまう罪である。

前者は論外だが、後者はその対応が難しい。むしろ、そのような厳しいコミュニケーションを突きつけることこそが、学問としては誠実であるようにも思えるからだ。池上さんからは、M1のころから容赦なく本気で問いかけられて、それはそれはつらい思いをしたのだが、今から思うと有難いとしか言いようがない。

ただ、自分の子供が成長する過程をみて、そのような厳しさを見せる親はいないだろう。そういった意味で、後者に関して言えば、コミュニケーションのフレームが根本的にスタイルに影響を与えてしまうように思える。

その後の飲み会で、芸大の学生たちとたくさん話してきた。最近、大学の学部生とちょっと交流があるのだが、芸大の学生のほうが圧倒的に面白い。