想像力の欠如

先日の新潟中越地震の直後に、神戸で震災にあった経験のある女の子が感情を揺さぶられてしまい、気分が悪くなっていた。その会話のときに一緒にいたある男の子が、「でも30人しかまだ死んでいないんだって」と言った。女の子は「地震てのは起きてからしばらくたってから被害が大きくなるの」というのが精一杯だった。神戸に比べれば被害規模がまだ小さいというなぐさめの言葉だったのかもしれないが、ぼくはその男の子の言葉に一体何の意味があるんだろう、といぶかしがった。

極端に言えば、理由なき犯罪によって幼子を失った両親に向かって「でもたった一人じゃないですか。いまアフリカでは1分当たり何人も餓死しているんですよ」と言うようなものだ。それは真理かもしれないが、目の前の人を救うことができない真理だ。

ぼくは、気の利いた言葉の言えない自分が嫌になって黙りこくり、こんなとき言葉というのはそもそも無力だとか、救いの手をだせる人というのは結局数人にしかすぎなくて、今回はぼくはやることはないんだろう、などと思っていた。

なにも人を非難するつもりはなく、似たようなことを先日ぼくもしてしている。池上さんが部屋にはいってきて、同僚の教授が朝になったら亡くなっていたという。「でも、一番いい死に方ですよね」とぼくは答えた。

社会的により大きな被害について考えることも、一番よい死に方について考えるのも、それはそれで立派な想像力なわけだが、ある種の想像力は、別の種の想像力の欠如を伴う。なぜなら想像力は意識と志向性のたまものであり、もしも想像力がありながら欠如を伴わないとすると、人間はフレーム問題を解けてしまうことになる。想像力の欠如は人間の一種の能力だということは、以前にも書いた。

コミュニケーションとは、そうした意味で想像力の欠如からしか生まれ得ない飛躍である。しかし、よいコミュニケーションとそうでないコミュニケーションがあるのは、そこに池上さんのいう"精度"というファクターがあるからなのではなかろうか。

PICSYは、人間の想像力を拡充することを目的としている。これについては茂木さんが名文?を書いているので、読んでほしい。しかし、ある種の想像力が、別の種の想像力の欠如を伴うのだとすれば、PICSYにおいてそれは一体何なのだろうか。未だ問いだけしかない問いである。

少なくとも、PICSYを探求することそれ自体が、ぼくからかなりの想像力を奪っているような気がする。しかし走り続けなくてはならない。