アラン・チューリング、その魂の灯火

科学の世界に英雄はいらない。自然と真理のみが正義である科学にとって、科学の進歩を妨害する英雄史観は、せいぜい子どもたちの夢を育むひとつのきっかけにしか過ぎない。だが、アラン・チューリングという一人の数学者にして科学者が、かくも多くの研究者に感銘を与えるのはなぜだろうか。それは、彼の悲劇の人生とその研究内容がシンクロし、人生の本質的な問題を魂の灯火として仕事することを避けてはならないと励ましてくれるからではなかろうか。

今日からちょうど100年前の1912年6月23日、アラン・チューリングはイギリスのロンドンにて生を受けた。そして42歳で青酸カリによる服毒自殺で亡くなるまでの間に、「チューリング・マシン」、「チューリング・テスト」、「チューリング・パターン」、「チューリング・ボンベ」という4つの大きな仕事を成し遂げた。死亡時のそばの机の上にはかじりかけのリンゴが置いてあり、毒リンゴで自殺したとも信じられている。アップルが社名とロゴをつくるときに、チューリングのかじられた毒リンゴを連想してつけたとも言われているが、真相はスティーブ・ジョブズが語らぬまま永遠の謎となった。

彼はゲイであった。パブリックスクール時代、同性の親友のクリストファー・モルコムに決して受け入れられない恋をした。そして愛するモルコムの若すぎる病死に直面し、魂について深く深く考えるようになったという。彼は1941年に異性のジョーン・クラークに結婚を申し込んだ。彼女はチューリングが同性愛者であることを受け入れたが、チューリング自身がこのままでは結婚できないと引き下がり婚約は解消された。同性愛はその時代のイギリスでは犯罪であった。晩年、彼は裁判で有罪となる。女性ホルモンの投与という治療を受けることによって刑は執行猶予になったが、それが彼の服毒自殺の原因になったという人もいるし、関係ないという人もいる。

1936年、若干24歳のときに発表した「計算可能な数について」という論文は、現代的な意味でのコンピュータの概念を与え、チューリングはコンピュータの父となった。計算する人の心の状態を機械に置き換えることができるのだろうか。後にチューリング・マシンと呼ばれる無限に長い一本のテープと、そのテープを読み書きする単純な機械。チューリング・マシンが恐ろしいのは、他の全てのマシンの動作をまねすることができる計算万能性のある機械を作ることができるからである。これはつまり、マシンの動作(プログラム)そのものを、テープ上に書き記されたデータとして記述することができるということである。現代のプログラマーがプログラムをファイルデータとして書くことができるのも、この計算万能性が支えている。だが、この論文の真の射程はコンピュータが何を計算できないかという点にこそある。チューリング・マシンそのものが停止するかどうかをチューリング・マシンは計算できない。コンピュータの可能性はその限界と共に、世界に投げ出された。

1939年、第二次世界大戦のドイツ海軍の「エニグマ」という当時絶対に破られないと言われていた暗号システムを、チューリングは暗号学者として解読した。これにより、イギリス軍はドイツ海軍の動きを逐次把握することができるようになり、戦況を劇的に変えたといわれている。その解読機はボンベというが、チューリングの功績を讃え、チューリング・ボンベと呼ぶこともある。

1950年、「計算機構と知能」という論文を書き、機械が人間の知能を実現するための検証方法について議論した。この論文で導入されるイミテーション・ゲーム(まねっこゲーム)は、女性が男性の振りをして誰かを騙し続けることができるか、という問題設定からはじまる。これは明らかに、ゲイである彼自身が社会から強いられてきた日常に他ならない。ここから機械が人間のまねをして、誰かを騙し続けることができるかという問題を検討するのである。イミテーション・ゲームは後にチューリング・テストと呼ばれ、人工知能の分野で重要な概念として用いられている。

1952年、「形態形成の化学的基礎」という論文は、生命によくみられる縞のパターンがどのように生まれるかというモデルである。形態形成(誕生してから細胞分裂を通して個体が成長するプロセス)という生命的な現象を、反応拡散系という物理プロセスで説明しようという野心的な研究分野の先駆けであり、チューリング・パターンと呼ばれている。

ぼくらの社会はチューリングの仕事の恩恵を享受しているが、それは別にチューリングが目指したことではないだろう。人と機械の違い、女性と男性の違い、物質と魂の違い、生命と非生命の違い、多くの人々が自明なものとして受け入れる違いに、彼は違和感をもった。一方をもう一方に還元してみたり、やはりそれではこぼれ落ちるものがあると戻してみたりと揺らいでいたようだ。これらは、彼の個人的な問題であると共に、普遍的な問題でもあった。彼は人生にとって人間にとって本質的な問題に悩み続け、そのプロセスから生まれた小さなかけらが、いくつかの論文として残された。研究が結果として役に立ってしまったことを、ちょっとした奇跡として受け止めるべきなのか、逆に奇跡とは常にそうしたものなのか、ぼくには分からない。

科学に英雄はいらない。だが、チューリングに惹かれるのは、この世界に対する違和感を押し殺さずに大事にしながら生きていっていいのだと励まされるからである。
チューリングの論文は美しい。人生に悩み、苦しみ、悔やむ時、その魂の叫びを昇華することができれば、こんなにも美しい仕事ができるのだと思うと、宇宙的な孤独さは紛れ、多少の慰めにはなる。

人間の心は複雑だ。チューリングの想いは誰も分からないし、チューリング自身でさえ分からなかったろう。だから、孤独がこんなことでは解消されないことは、ぼくだって分かっている。だが、その魂の灯火を受け継ぎ、問いを立て続け、揺らぐ思惟をテキストに残すことは決して無意味ではないだろう。

この世界と折り合いのつかないあるひとりの揺らぐ想いに静かに耳を傾けながら、この日、今日という1日をチューリングに捧げた。そしてここに、PICSY blogを復活する。勇気をもって。