PICSYのホームページへのアクセスが今日の昼過ぎから急増したので、何かと思ったら、あの「電車男」が新潮社から「文学」として出版されるらしい。読売新聞の記事をYAHOOが配信をして、そこの関連でCNETの梅田さんのblogがリンクされていたから、ということが分かった。
このblogと電車男の関係については、梅田さんのblogを読んでみてほしい。
PICSY blogにきてくれた人に、いきなりルーマンを読ませるのもなんだろうと思うので、2ch文学について書いてみようと思う。2ch文学でググると、2ch文学版か、電車男のどちらかがでてくるので、ぼくが2ch文学の命名者と言ってもいいだろう。そういう言葉を使った人はその前にもいたかもしれないが、いま使われているコンテクストにおいて、2ch文学とは何なのかを語る資格があるように思う。
softdrinkの発表のときは、
線への反旗
と3つのタイトルを立て続けに出して、参加者の笑いをとったのだが、線への反旗という言葉に収斂されていくこれらの言葉たちに、文学という概念のもつ裏の意味を掛けていたことは、誰も気がつかなかったようだ。
YAHOOでは、
2ちゃん発文学「電車男」刊行
となっているが、これは2ch文学とは違う概念で、2ch発文学だ。新潮社の担当者は、賢明にも「匿名の人たちの書き込みが青春と連帯の物語を作った新しい文学」と書いてあるが、これこそが2ch文学なのである。
どういうことなのか説明しよう。2ch発の文学では、2chに書かれたなんらかの小説なり文学という意味になる。しかし、「青い鳥」や「電車男」は2chに文学が書かれたのではなく、2ch自体で繰り広げられたコミュニケーション(掲示板の書き込み)全体が文学なのである。
これが新しい文学の形であることは明らかだろう。
ここからは、著者性(Author, Authority)が抜け落ちている。テキストのほとんどは電車男が書いたものではなく、それへのレスポンスである。だから、新潮社から出版される今回の本も、中野独人という架空の著者名をつけた。
その文体は、2chのWEBアプリケーションとしての機能そのものであり、その不自由さから文学としての可能性が生じている。
このようなコミュニケーションとしての芸術というアプローチは、テキストに限らず、例えば友人でコンピュータ・アーティストの安斎利洋らが行っている連画など、すでに多くの事例があるが、電車男はその成功した最初の大衆文学といってもいいかもしれない。そういうぼく自身も、SNSを利用して新しいコミュニケーションアートができないか、現在計画中だ。
「線への反旗」というプレゼンでは、線=組織という意味に限定してあえて説明したが、裏の意味として、線=自我、著者の固有性という意味を掛けていたのだ。
「電車男」は文学ではない、という意見も散見される。しかし、多くの誠意ある文学者や批評家が認める通り、文学とは、文学でないものを文学として認めるという営為そのものなのだ。そして、ちょうど科学と哲学の関係がそうであるのと同様に、新しい文体は、一度文学を通って、いずれ文学でなくなる。それが古典的文学と呼ばれ続けるかどうかは、ひとえに歴史的普遍性に依存するだけなのだ。
デジタル時代の万葉集である2chから、まだまだ多くの詠み人知らずの連文が生まれてくるに違いない。そして新しいアプリケーションから、まだまだ新しい文体が生まれてくるだろう。