実質的にAであることと、形式的にAであることとの違いについて。あるいは、形態、ルールが根源的にアドホックであることは何をもたらしてくれるか。

昨日は、gree night 1.0というのに参加してきた。ぼくは、1995年から1999年までは比較的ネットにかかわっていたが、2000年と2001年のころはずっと、哲学書や社会学書を読んだりして、世界に対する認識及び行為がどうあるべきなのか、自分がいったいどんな研究をしようかとずっと悩んでいたので、ネットバブルのころにネットにいなかった。だから、ビットバレー的なるイベントというのにはじめて触れたことになる。ふーん、これがネット業界ってやつかあ。行って感じてきたことはgreeのプロフィールに書いたんだけど、greeはいってない人はみれないだろうな。

あと、Segwayにのった。

閑話休題。表題の内容について話す。つまり自由についての問題だ。

たとえば、現政権を気に入らない人がいて、実質的に自民党がここ数十年政権を支配しているとしても、わざわざ革命を起こす必要がないのは明らかだ。というのは、下のレイヤー(憲法における議会制民主主義の規則とその実践としての選挙)が政権を変えることを可能にしているからだ。

この手の話はあらゆる話題につきまとう。下のレイヤーの法則から、上のレイヤーでの法則が発生しても、下のレイヤーが杓子定規に実践されている限り、上のレイヤーはアドホックルールでしかない。だからいかなる目的であれ(たいがいにおいて効率性なのだが)、上のレイヤーで構成されたルールを形式ルール化してしまうことはよくない。

たとえば、政党政治は、議会制が機能するためにはいたしかたないだろう。ソ連崩壊後の最初のロシア議会では、政党の形成があまりなされていなかったことによって、ほとんど全員の議員が発言をもとめたため収拾がつかなくなった。しかし、政党に参加しないと政治家になれないというルールを作ったら、政党政治にかわる新しい政治形態の発生を禁じてしまう。

たとえそれが空想の世界の産物であったとしても、中学のときに公民の教科書で習うような社会システムの基盤は必要なのだ。

ネットワークがピアとピアのつながりが根っこにあるというのが根源的で、そこから上のレイヤーでどのようなルールや組織がアドホックにできようとも、でも最終的には下のレイヤーの自由が多様性を保証してくれる。

ネットの文法は、社会システムにおいてその自由を、下のレイヤーの自由を数段階下げることを可能にするものだと思う。P2Pやソーシャルネットーワーキングは、そういった視点で考えなくはいけないとぼくは思っている。みんなが面白がっている理由とぼくが面白がっている理由が、一致しているのかずれているのか、知りたかったので、とりあえず書いておく。コメントください。

PICSYがインフラとして伝播性を保ちつつ、その実質としてSECSYと同じことが実現できるということはそういうことだ。社会のOSをいれかえるということが、最終的にわれわれに何をもたらすのかを話したかった。

貨幣の次のステップとして、社会契約論の見直しをしなくてはいけないと考えている理由はそこにある。これもまた空想の産物だ。

もっと自由を。ぐふっ。