artificial art と authority of author

24日にソフトウェア業界の飲み会「softdrink」があって、システムアーティストの安斎利洋さんに発表してもらった。その後、朝までALL飲み会で、安斎さんと話したんだけど、すごく考えが近くて驚いた。神経接続の話から多重人格の話をしたとき、分離脳の話がでてきて意を得たり、とかそういう細かいこともさながら、その問題意識に通低するところにおいて、互いの了解がスムーズにいく。

ところで、以前、passion for the futureで顔ポイエーシスはオートポイエーシスじゃないというコメントをしたので、本人に確認したところ、「顔ポイエーシスはオートポイエーシスじゃないです。僕自身はオートポイエーシスだと一度もいっていない。いってないんだけど、みんなオートポイエーシスだと思い込んでしまう。オートポイエーシスにしたかったけど、できなかった。いつかしてみたい。名前付け間違えたかも」との答えを得た。ということで、公式に?顔ポイエーシスはオートポイエーシスじゃないということです。ちなみにポイエーシスは「創出する」という意味なので、顔が創出しているには違いないので意味的には間違っちゃいないです。

閑話休題、安斎さんと共有する問題意識というのは、ひとつはartificialとartという問題。artificial intelligence(人工知能)とかartificial life(人工生命)とかいうとき、natural(自然な)知能とか生命があるという前提がある。しかし、実際にはartificialなものはnaturalであって、ベースは二元論的な対立ではない。二元論は構成され、生成されるものなのだ。

さて、ソフトウェアアルゴリズムによって生成されるアートは、artificial artということになるが、それらは、natural artと同様にnaturalなはずである。安斎さんは、動物まで含んで普遍性のある美をsystem artをコンセプトに作ろうとしている。それらはガウディが逆さづりから建築設計したことや、千住博岩絵具を垂れ流し滝を画いたように、重力を美に利用しようという数々の試みと同様な、「美の追求」である。しかし、まだそれは果たされていない。

二つ目の問題意識は、authorとauthorityという問題で、このニ身一体をいかに融解させていくかということ。連画が欧米でショッキングに受け入れられたのもその融解性にあるようだが、それが当たり前になるといいな。

昔、トランスメディアなグラフ論的批評システムを作りたいと構想したことがあったことを思い出した。詩に絵で批評したり、絵に音楽で批評したり、音楽に写真で批評し、写真にアニメで批評するということを自由にできるシステムだ。今ならblogを使って実装しようと思うだろうな。「批評」を言葉に制限することと著者性の発生には関係があると思う。

しかし、これらの共有性は分かりやすい。真に共有しているのは、普通の人にとってinvisibleな線をvisibleにすることに強い情熱を感じていることだと思う。世界は点の集合ではなく線の集合であるという世界観こそが共有されているような気がする。

安斎さんのPICSYに対する他の追随を許さない直線的理解は、そのためではないか。オートポイエーシスが、要素の集合ではなく、作動によって生成されるselfだからこそ。

ああ、新しい数学が必要だ。もしくは新しい芸術が。つまるところ新しいartが。