PICSYが実装される予定のテラフォーミングシミュレーションゲームGumonjiのβがリリースされた。連日、一日中遊んでしまって、PICSY Engineのリリースができない。困ったものだ。一日中遊んでしまうのだから、面白いに違いない。しかしこの手のゲームは、最後の1%で作品の価値の80%がきまる画竜点睛系の最たるものだから、ここからが勝負というところだろう。中嶋さんいわく、富士山目指して、いまは高尾山だそうな。
今日はPICSYの文脈を離れて、Gumonjiの魅力について語ってみよう。
Gumonjiが狙っているのは(というよりも中嶋さんが狙っているのは)、Gumonjiからゲーム的なものをことごとく排除し、その上でゲームが成立するということを示そうというものだ(そしてそれこそがゲームであるということを示そうということなのだ)。
第一に、Gumonjiは、世界がセルオートマトンで構成されている。ひとつのセルは、水、窒素、炭素などを含有しており、隣のセルの含有量と勾配や上に乗っているオブジェクト(動植物)によって次の状態の含有量が決まる。多次元連続状態のセルオートマトンだと言って問題はないだろう。
当然、これらの含有量は保存則が成り立つ(実際には水タンクとウンコタンクがあって、世界との出し入れができるが、タンクも系に含めてしまえば保存則は成立する)。
プレイヤーは、各々勝手に土地を上げ下げしたり、水や種を撒いたりするが、ローカルインタラクションを通して、結局は世界全体に影響を与えている。プレイヤーは、個人の視点と神の視点を行ききして、「私と世界」の関係を学ぶのだ。そして、「私」と「世界」の間にその中間レベルのオブジェクトが恣意的に導入されるのではなく、ボトムアップに構成しようとしている(Gumonjiでは部分的にしか達成されていないが、その究極は「順列都市」だろう)。
第二に、Gumonjiはその世界のルールをプレイヤーが決められるようにしようとしている。それがいわゆる「ゲーム」である以上、製作者とプレイヤーという大きな溝が存在するが、Gumonjiはそれさえ覆そうとする。Community Engineは、プレイヤーの意思決定には従うつもりらしい。それは、ゲーム内の物理法則も含むし、ゲームの運営方針も含む。こんな株式会社があってよいのか? 否。そういった固定観念を破れるかどうかが勝負なのだ。問いそのものを無効にしたいのだ。
ホフスタッターの「メタマジック・ゲーム」の中に、どこまでもゲームのルールを変えられるゲームの話がでてくるが、そういうゲームを作ろうとしているようだ(当然、ゲームのルールを変えられないというルールを作るだとか、そういう話がでてくる)。
ゲームはメタゲームである。メタゲームはゲームである。その境界は本来的には存在しない。そして、本来的に存在しないことを行為をもって示し、体験によって把持させようということこそが、中嶋さんが達成しようとしていることだ。ゲームをする喜びは、その世界の固定観念を打破したときに最大に得られる。Gumonjiは、固定観念から永遠に逃走できる環境をプレイヤーに与えようとしているし、そしてそれが達成できたなら、中嶋さんこそがキング・オブ・ゲームマスターの称号を与えられるべきだろう。
そういった意味で、Gumonjiは自然環境シミュレーションゲームのようでありながら、それを含んだ意味で、極めて政治的で、極めて経済的であるといえる。
優れた作品とは、音楽にしても映画にしても文学にしてもゲームにしても、どこまでも裾野が広く、そして、どこまでも高いものである。誰でも楽しめるし、何度も楽しめるし、その道の求道者にも感動を与えられる。どちらか片方だけを達成するのはさほど大変なことではない。その様態をたとえて、はじめに富士山といった。
人はそういった作品を古典と呼ぶ。古典は、作家の意図を超えなくてはならない。作家の意図しかない作品は所詮、一人の人間の思索の程度以上の広がりも奥深さも持たず、再読をするに足りないからだ。そして作家はそのことを知っている。だから、作品を語るのでなく、作品で勝負をするのだ。作品を作るのではなく、作品によって作られるのだ。そして作品は作品ではないのだ。
開かれた世界のその敵は、社会主義者だけではなく、制御可能な系が存在すると信じているあらゆる人々のことである。そして作家は、自然主義的誤謬という批判をあびながら、新たな世界のフロンティア-可能性-を開拓し、彼らを体験によって啓蒙するのである。
作家は、そのようにして作品が生まれえることの奇跡に驚き、世界の美しさに感謝をするだろう。筆がすぎた。まだ高尾山なのである。