ISED@12/12

ISED「情報社会の倫理と設計についての学際的研究」の第一回設計研が12/12(日)に六本木のGLOCOMで行われます。知り合いの方であれば、オブザーバーとして推薦できるかもしれませんので、ご連絡ください。

報告し忘れましたが、倫理研の第一回の議事録が公開されています。ぼくもオブザーバーながら少しだけ発言しています。ちょっと舌足らずだったところがあるので、補足して説明したいと思います。

1.

「1995年ぐらいに僕はWebに触り始めたんですが、その時にWebはこんなに面白い未来を持っているという空想的世界があり、そのあとにITバブルというのがそれに対するアンチテーゼとして起きたんです。その反動というのをもう一度、地に足を"ある程度"つけた形で戻していきたいと思っているんですね。」

という発言をしていますが、Webが登場したころにおける議論は、情報革命によってライフスタイルがどのように変わるかという話だったが、ITバブルやネットバブルの頃になるとIT革命によって生産性がどう上がるかという議論に置き換わってしまった。それをもう一度、ライフスタイルの話に戻していきたいという意図です。

2.

複雑系というのはもっとニュートラルな考えだと思っていて」という発言についてですが、鈴木謙介さんの紹介が、創発というのを意図/無意図(意識/無意識)という構図で捕らえ、創発=無意図⇔保守=意図という対立構造で考えているため、意図や意識自体が創発するということを対象にいれていないことを問題視しています。

鈴木謙介さんの発言にある

創発性の重要な考えとして、個々の要素は全体を把握する必要がない、個々が勝手に振る舞っていても全体の秩序は生まれるというものがありますが」

創発主義から引き出される『全体的な動向を個々人が認識しなくても秩序は生まれる。個々人は自らのローカルな利害関心にのみ注意を払えばよく、全体的認識は必要ない』という政治的立場」

というのは、鈴木謙介さんがおそらく間違った文献(世の中に出回っている文献の95%が間違っているのかもしれませんが)を読んでしまったことによる誤解だと思います。

科学として、世界にある森羅万象をコトを見ようということであれば、意識や意図を理論の対象外とする必要はなく、創発という言葉の範囲をそんなに狭くとる必要はないのです。

科学ではなく論壇の世界では、創発というのがそういう意味で使われているのであれば、それはもう業界の違いとしか言いようがありません。

アインシュタインが来日し、相対性理論が社会的に流行したときに、ちまたでは相対主義が流行ったそうですが、いまから見るとおかしいですよね。相対性理論から相対主義がどう導かれるのでしょうか? 同じようなことが現在論壇では行われているようです。

3.

「情報倫理と題される本はいくつかあり、そのなかでは往々にして、初期のネットを支えた科学者やハッカーのコミュニティは倫理的であって、インターネットが大衆化した結果そのような良きコミュニティが破壊されたという話がなされている。しかし、それはとても後ろ向きな議論ではないか。ハッカー倫理が素晴らしかったとして、その何が普遍化できて何が普遍化できないかを腑分けしないと、単なるエリート主義になってしまう。そこらへんが気にかかっているところです。」という東さんの発言についてです。

第一に、まず批判している前提として「ハッカー倫理を価値論として肯定しているが、それは後ろ向きだ」という東さんの主張は、せっかく鈴木謙介さんが「よしあしの問題ではなく、ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神が関係していると主張したように、情報社会の倫理と民主主義の精神に関係があるかを分析しよう」という趣旨の報告をしてくれたことを無駄にしてしまっていると思います。

ぼくは、よしあしの問題ではなく、情報社会の倫理は、大学院の科学コミュニティという特殊な環境によって立ち上がったのだろうという分析をしただけです。東さんの論法を同じようにウェーバーに割り当てれば「プロテスタンティズムの倫理がすばらしかったとしても、それは一宗派に依存したものにしかすぎず、単なる宗教になってしまう」ということになるでしょう。きっとウェーバーはびっくりするでしょうね。

ここで議論されているのは、あくまで歴史的な起源問題であって、プロテスタントでない国でも資本主義が発達したように、科学者コミュニティであることに別にこだわる必要はないのです。(かわりに科学者コミュニティ的な方法でなぜ成功したのが、どこがすばらしいのかを学ばなければならないのです。)

ただ、鈴木謙介さんがGNUコミュニティとプルードン的中間集団を一緒にしてしまったのは、明らかなカテゴリーミステイクであり、そこは切り離さなければならないといえます。たとえば高木さん主宰のjava-houseを見てもらえばわかりますが、初心者の配慮のない質問は一刀両断にしかられます。そこにはプルードン的優しさは微塵もありません。専門家コミュニティというのは、プルードン的なコミュニティとは違って、グローバルに連帯し、やたらと互いに厳しい乾いたコミュニティなのです。

第二に、ここでいっている科学者コミュニティの倫理というのは、「ソースを公開するという倫理」や「固有名(誰が主張したか)は真理とは独立であるという倫理」であり、それはそれですばらしいのですが、これらの倫理は、別の環境や価値観で実行すると非倫理的な行いになります。「科学者やハッカーのコミュニティは倫理的」というような短絡的な図式は言えません。

第三に、オープンソースがエリートのみの特権にしかすぎず、広がりに限界があることは、ロージナ大飲酒会でぼくが主張したことそのものであって、そのための解決策としてPICSYを使えないかという提案をしたのでした。東さんもその場にいて質問をしていましたね(それに対する反論はこちら)。ということで、エリート主義の問題については東さんの意見に100%同意します。

第四に、ぼくは社会的一プレイヤーとして、上記の倫理は大変好きです。人に強要はしませんが、推奨はしています。