ISED 部分最適と全体最適をめぐる誤解

議事録のこのページで、東さんは以下のように、ぼくと鈴木謙介さんのやりとりをまとめていますが、これは誤っていると思います。

とはいえ、議論は繋がっています。司会として指摘しますと、鈴木健さんと鈴木謙介さんの差異は、今日延々と話題になっている全体最適部分最適か、という話の延長線上にあると思います。

 鈴木謙介さんが指摘したのは、従来「社会契約」と呼ばれてきたものは、社会という全体――それを国家と呼んでもほかの名前で呼んでもいいのですが――と個人、つまり、全体と要素の契約を指していた、ということですね。ところが鈴木健さんは、全体を経由しない要素と要素の契約を考えている。つまり、鈴木謙介さんは、社会契約の前提には全体最適の発想があるはずだと指摘し、鈴木健さんは、全体最適なんか考えない「新しい社会契約論」が構想されるべきだ、と主張しているわけです。

 おそらく鈴木健さんは、そのような部分最適化した社会契約はむかしからあったと主張すると思います。

既存の社会では、全体最適の内面化のプロセスを説得に追っていました。そのため、

1.部分社会である国家や企業が国民や社員に、言葉としての「全体最適」の内面化をすすめるため、結果として社会全体の最適性はむしろ内面化されにくい。むしろそのような内面化のプロセスによって、組織という膜がコミュニケーション的に成立した。

2.説得という内面化プロセスによって育まれた全体概念は、個体にとっての空想の産物でしかなく、細胞レベルで身に着けたものではないため実行時に脆弱であった。

3.いくら全体、全体といっても、歴史上だれも本当の全体など指し示したこともないし、認識したことすらない。

そのような、存在したことのない全体最適を内面化しようとむなしい説得をするのではなく、個々人の行動が必然的に世界全体に接続し関係しているという感覚を、日々日常の生活の中で自然に感じられるような社会システムの設計をしようではないかというのが、ぼくの意見です。

だから、むしろPICSYによって社会全体に対する内面化は増加するというのが、ぼくの意見なのです。

http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2004_19872/slides/11/56.html

既存の社会制度論における部分最適全体最適の議論は以下の2類型しかありませんでした。

部分最適全体最適になるように制度を設計せよ

・そもそも全体最適を志向するような内面は、部分最適を志向するような内面よりもすばらしいと思うように内面を形成せよ。

これらは独立の概念として成立しており、フーコードゥルーズ=東の言葉を用いれば、それぞれ環境管理型、規律訓練型に相当するわけです。僕の言葉でいえば、設計と説得にあたります。

前者の例はアダム・スミス的な「神の見えざる手」と呼ばれる考え方であり、経済学的に言えば、完全市場はパレート最適を実現するというアローらが証明した厚生経済学の第一定理に代表されるような考え方になります。

後者の例は、国民国家成立以降の教育のような啓蒙的活動に代表される考え方になります。

PICSYや新しい社会契約論(構成的社会契約論)は、上記の2つには当てはまらないともいえるし、両方を満たすともいえます。すなわち、

全体最適を達成しなければ、部分最適を達成できないように制度を設計し、そのルートを可視化せよ。そうすれば、全体最適への志向性が内面に自然に生まれてくる。

それを、ぼくは「経済倫理を下支え」と呼びました。

http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2004_19872/slides/11/57.html

東さんは、ぼくの考えを、「部分最適のみでよいという考え方」と呼びました。つまり、環境管理型であり、アダム・スミス的であるとみなしたわけです。

しかし、ぼくが言いたいのは、全体最適へのルートを可視化することによって意識化にのせ、内面化せよ。そしてそのようにしてしか部分最適も実現しないようにシステムを設計せよ、ということなのです。

世界は恐るべきほどつながりあい、関係しています。しかし、私たちはそれらを離散化して見ることによってしか、世界を把握できませんでした。私たちはこの関係性から逃げることはできません。

関係性をいかに断ち切り、ないものとみなすかというアプローチに対抗し、関係性を積極的に可視化し、認識せよというアプローチを採用するのです。

しかし、このアプローチは、既存社会が隠蔽していたさまざまな問題を暴露することにつながります。現在、ライブドアで問題になっている資本による間接支配もまたしかりです。これについては、また別の機会に書くことにしましょう。

とにかく、この暴露によって新たに解決しなければならない問題が発生したように見えてしまいます。しかし、これらの問題は新たに発生したのではなく、今まではふたをして隠蔽していただけなのです。

全体最適部分最適という対立軸でこの研究会が今後も議論を展開していくならば、ぼくが欲するような生産的な議論は、この研究会からは生まれてこないでしょう。