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第一章 社会心理学と行動主義
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普通の社会心理学:個人的経験の心理学的観点から一般に社会的経験の局面を扱う
ミードの社会心理学:社会の観点から、少なくともコミュニケーションの観点から経験を扱う。
心理学の一部門としての社会心理学の特別な関心:個人の自我および自我意識の発達
精神および自我は、本質的に社会的産物である。
ワトソン流の行動主義:動物実験からスタートし、内観を排除
ジェイムズ流の内観主義:意識は個人の経験の中にある
社会行動主義
ワトソンも内観主義も扱えない方法で、コミュニケーションの分野を扱うことが可能
表現されるべき内的意味の観点からでなく、信号や身振りの手段によって行われる集団的協同というより広い文脈から接近
社会心理学にとって、全体(社会)は部分(個人)に先行するもので、部分が全体に先行するのではない。社会的行動は、それを刺激プラス反応から構築することによっては説明されない。
★オートポイエーシス的細胞モデルに相当する考え方
社会心理学は、単に内部から外部へという代わりに、外部から内部へと進む。したがって、神経索ではなく、行動が行動主義的に考えられたときの社会心理学と個人心理学の根本的な素材である。
★外部は行動主義で内部は内観のこと。
★ワトソンとジェイムズの良いとこ取りをして、内観を切り捨てない行動主義=社会行動主義の立場を説明している章。
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第二章 態度の行動主義的有意味性
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★ワトソン流行動主義が精神や意識を扱えないことをこっぴどく批判した上に、
心的行動または現象は、非心的行動または現象から発生し、その複雑な関係から結果したものとして説明できる。
態度(個人の行動の開始)による行動の組織化
離れた対象に近づこうと思えば、到達したときに行おうとすることの関連で接近する
ハンマーに近づこうとすれば、ハンマーの柄を掴む準備が筋肉的にできていなくてはならない
馬に慣れている人が馬に乗ろうとして近づく
馬を食べようとして近づく
★池上さんのいうsubtleか
★デネットのいうintentional stanceやphysical stanceと関係するかも
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第三章 ジェスチャーの行動主義的有意味性
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言葉の機能は、組織化のなかで行動の場所をもつという機能である
ワトソン派の行動主義者は、ワトソンの条件付けを言語の分野に持ち込み、馬と「馬」という言葉を結びつけ、それへの反応(乗る、売る等)の組み合わせを考えた。しかし、馬について集められた行動それ自体(乗る、売る等)に「馬」は組み込まれなくてはならない。
★pragmaticsはsemanticsに先行するというお話か。このへんが哲学としてのpragmatismの真骨頂だね。
言葉の最重要な価値は、組織化の統制である
しかし、そのような組織化は、言葉のないより下等な動物のなかにも見られる。言葉の最も重要な価値は、そのような組織化を統制できるという点にある。言葉があてはまるもの(対象)は、言葉自体を使用しない個体の中にもある。
★言語がまずあるのでなく、(ジェスチャーという)先行現象から言語を説明しようとしている。ジェスチャーになく言語にあるものが後に明らかにされるのであろう。→第二十三章で「自我は実体ではなく、ジェスチャー会話が有機体個体のなかに内面化された過程なのである」とある
言語学者は使用されるシンボルから言語に接近するが、これは誤りである。
正しい言語への接近方法は、ジェスチャーや態度の中からの接近である。ジェスチャーや態度は、シンボルおよび意図的なコミュニケーションに先行する。
★ミードはここで、意図(intention?)を先に想定するような言語理論を批判している。
ダーウィン「人間と動物における感情の表現」における接近方法も、言語学者と同様に間違えている。言語は感情の表現ではない。
★ミードは、同様に感情を先に想定することを批判している。ダマシオ的に言えば、ダーウィンが分析したのは感情ではなく情動であろう。情動には意図および意識は必要とされない。ミードは、意識および自我および意図が社会的に創発されたものであるため、それらをアプリオリに認めた一切の議論を批判している。鈴木健的にいえば(ミードも賛成してほしいのだが)、感情はIとmeの個体内コミュニケーションにおいて発生する。つまり、感情があるかのように自己解釈することそれ自体である。すなわち、感情は先行すべき何かではなく説明すべき何かである。
意識が社会的行動の先行条件ではなく、社会的行動が意識の先行条件なのであると結論せざるを得ない。