私は人を殺せるだろう

リアリズムとは、「私は人を殺せるだろう」という視点から出発する思考形態のことである。「私は人を殺してはならない」「私は人を殺さない」「誰かが私を殺すかもしれない」「私は人を殺したい」というような視点からはリアリズムは生まれてこない。

ぼくは人を殺せるだろうと思う。ぼくらの祖父の世代は、かなりたくさん殺したし殺された。ぼくがそうならないという理由はどこにもない。少し論理学的に表現するとこのようになるだろう。「いかなる私に対しても、私が人を殺さずにはいられない状況が存在する」

昨日、「es」という映画を観た。有名な「監獄実験」を題材にした映画だ。1971年、スタンフォード大学でジンバルド教授によって、21人の学生を看守と囚人に分けて2週間の予定でロールプレイをするという心理実験が行われた。囚人は従属的に、看守はあまりにも残忍な行動をとるようになったので、6日間でこの実験は終了してしまった。あまりに危険なので、現在心理学会ではこの実験をすることが禁止されているという。

先日、佐伯胖氏のゼミ生が駒場で発表をしにきた。幼稚園か保育園での遊びの風景の分析をするという内容だが、佐伯氏が「われわれ大人では信じられないくらい不条理がまかり通る」と言っていたのを聞いて唖然とした。われわれ大人の世界だって同じくらい不条理で政治的だ。本質的には何も変わっていないが、進化を耐え抜いた社会システムがかろうじてバランスを保っているに過ぎない。

リアリズムを発見したときにはじめてシステムの意味を悟ることができる。文化人類学の説明手法だけでなく、間接民主制や三権分立は、リアリズムに立脚した概念だ。いずれも、完璧な人間は存在しない、万能な解決策は存在しない、役割力学に依存しない人間は存在しない、という前提から出発して、力学構造の問題として政治システムを扱っているからだ。

PICSYで、「コミュニケーション力学の変容」という特徴があるが、どうも言葉が軽い気がして仕方がなかった。それはきっと、説明の仕方にリアリズムが欠けているからだと思う。

2年前の911直後に、「テロ以降を生きる私たちのニューテキスト」に寄稿してほしいという依頼を角川書店の滝澤恭平氏から受けた。当時異常に仕事が忙しかったので断ってしまったが、今書くとしたら、こういう話について書くだろう。「私たちはテロリストになれるだろう」