さて、前回は、民主主義のパラドックスを紹介して、どれほど大きな会社の意思決定を下すのにも、原理的には1円あればいいことを示しました。
ただ、これはヒエラルキカルな構造の場合のことです。そういわれると、ループになっていたり、ネットワーク構造になっていたりした場合にどうなるか知りたくなるでしょう。
会社間の株の所有がループやネットワークになっている場合、それは「持ち合い」と呼ばれています。
奥村宏は、企業グループの中で株を持ち合うことによって、実質的に株主をなくしてしまう日本の資本主義構造を「法人資本主義」と名づけました(「法人資本主義の構造」1974年)。
日本独特の構造を分析しようという試みは、1960~70年代に相次ぎました。奥村の研究は、丸山真男の古層論(執拗低音論)、村上泰亮らの「文明としてのイエ社会」論などのそうした試みの現代社会版として読むこともできます。
岩井克人「会社はこれからどうなるか」2003年では、さらに議論を発展させ、持ち合いという構造がヒトとしての法人とモノとしての法人の二面性に内在するものだという論が展開されました。
(この点については、岩井独自の研究ではなく、会社法の専門家の長年の研究成果だという指摘もありますが、ぼくは専門でないのでよくわかりません)
では、この岩井の会社論を紹介したいと思います。この本のサマリーを以前書きましたが、二章と四章が山です。
第二章
ヒトはモノを所有できるが、モノはヒトを所有できす、ヒトはヒトを所有できない。法人はヒトから所有されるという意味でモノであり、モノを所有するという意味でヒトである。法人は契約の安定化のためにある。
第三章
古典的企業のオーナーと経営者の関係は委任契約だが、株式会社の経営者は医者や弁護士のような信任義務がある。
第四章
法人名目説と法人実在説はどちらも正しい。法人名目説はM&A、法人実在説は持ち合い。持ち合いによって、法人は何人からも支配を受けないヒトとなる。
まず、近代社会においては、以下のことは許されています。
ヒト=所有=>モノ
以下のことは近代社会では許されていません。(近代以前であれば、ヒトがヒトを所有することが許されていました。いわゆる奴隷制です。)
モノ=所有=>モノモノ=所有=>ヒト
ヒト=所有=>ヒト
では、会社はヒトでしょうか、モノでしょうか。
株主=所有(1)=>会社=所有(2)=>資産
ヒトがモノを所有するという公準から、所有(1)においては会社はモノであり、所有(2)においては会社はヒトであることになります。岩井はこれを二重の所有関係と呼んでいます。
所有(1)について、会社がモノであることが一番クリアに見えるのがM&Aのケースです。会社をモノとして扱い、売買するわけです。
所有(2)について、会社は法人のひとつであるということで説明がつきます。法人とは、「法の上でのヒト」という意味です。仮想的にヒト化するわけです。これによって、所有関連のあらゆる契約(売買契約も含む)を会社名義で行うことができますので、もし代表者が交代しても契約書の有効性が保持されるのです。
この仮想的なヒトは、誰か本物のヒトのコントロール化におかれていることが想定されます。これが株主です。ところが、この株主がまた会社(仮想的なヒト)であった場合はどうなるのでしょうか。その株主会社の株主が本当のヒトだったら、それでもまあいいでしょう。
ところが、うまくループを作ってしまえば、最終的に本物のヒトはどこにも登場しないことになります。意思決定の根拠を問うても、最終的に着地する主体がないということになってしまうのです。
勘のいいヒトはもうお気づきですね。これが持ち合いです。さらに効率よくするために、持ち合いはループを含む複雑なネットワーク構造を持ちます。
オートポイエーシスを提唱したフランシスコ・ヴァレラは、「生物学的自律性の諸原理」において、自律性(autonomy)という言葉を定義しました。
閉鎖系の命題あらゆる自律的システムは有機構成的に閉じている。
有機構成的閉鎖性を自律性の定義しようと提案したわけです。有機構成的閉鎖性というのは分かりにくいですが、例としてアイゲンのハイパーサイクルが挙げられています。autonomous system(自律的なシステム)とは、行為の原因がそれ自身にあるようなシステムのことをいいます。
これは口でいうより難しいです。世にある自律的エージェントなどは、ちっとも自律的ではないからです。たとえば、ここで紹介されている自律的エージェントは、所詮はプログラマーや設計者によって制御されているのです。
自律的システムとは、設計者がそれ自身であることを意味します。外部からそのようなシステムを見たときに、行為の原因が問えないことになります。
持ち合いによって会社が自律性をもつことによって、外部からは理解できないダイナミクスで意思決定が行われるようになります。社長が全権をもっているかもしれませんし、労働組合が強い会社もあるでしょう。長老というか引退した取締役が強い影響力をもっているかもしれません。はたまた、それらの複雑な相互作用が意思決定を作り出しているかもしれません。さらに、自律的なシステムは、それ自体の行為のダイナミクスの構造を変えていくことができます。
ちなみに、autonomyは、自律的とも訳されますが、自治権という意味もあります。6/4のシンポジウムのテーマのひとつが、autonony social systemということになっていますが、どうなるのでしょうか。
会社は自律的でよいのでしょうか?
すなわち、持ち合いはよいのでしょうか。
この質問はひとまずおいておきましょう。(奥村さんの意見はNGで、岩井さんの意見はOKのようです。)
スイスのZurich大学のファイファー教授が東京から世界の5大学に対して同時に講義をした、AI Lectures from Tokyoのアーカイブを毎夜見て、英語の勉強をしているのですが、そのLecture 3: Embodied Intelligence: Basicsで、自律性について非常によいことを言っていました。
(このビデオアーカイブは、モダンAIを知らない人にとっては、とてもよい入門になっています)
教授は、自律性は単独では規定できないといいます。たとえば、赤ん坊は、非常に慣れた母親の手にかかれば制御された存在ですが、手馴れない他人にとっては手がつけられない自律的な存在にみえます。すなわち、自律性は相対的な概念(relative concept)だということになります。ヴァレラが、autonomyとautopoiesisの違いについての説明で、同様の議論をしたのを思い出しました。
一つ大事なことは、自律性は相対的な概念であるが故にダイナミカルな概念であるということです。この視点を抜かした「会社は誰のものか」という議論は、即座に誤謬を導くでしょう。
次回のテーマは「意思決定とPICSY」です。