消費時間価値形態論

情報財をPICSYにのせるための方法をずっと考えている。

消費時間というアイデアが頭をはなれない。

これは以前、予算制約価値形態の変化についてというタイトルで書いた内容の続きにあたる。

以前、ドン・キホーテ安田隆夫社長がテレビで「時間消費型」という言葉を使っていた。現代の消費者は、面白いものが多いので、ちょっとやそっとでは店で時間を消費してくれない。逆に、時間を消費してくれるような店舗作りをすれば、自然と売り上げが伸びるというロジックだ。それであんなジャングルのような店内になったのだろう。

この議論はマーケティング的な見地からだが、経済学的な見地からの議論は明快だ。要するに、セイの法則ではなく有効需要の原理が支配する現代社会では、需要を生成させるための消費時間の奪い合いにさえなっているということだ。

情報財に関して、特にこのことは自明である。図書館にある本を全部読むのは不可能だと悟ることは容易だし、世界で生産され続ける新しい音楽の時間は、24時間につき24時間より長い。

PICSYとのGumonjiのIntegrationについて、先日コミュニティエンジンの中嶋さんと話したとき、MMO RPGにおけるプレイ時間をPICSYで扱えないかというアイデアがでた。

そもそも、その財の価値をその財を利用している時間という概念から定義できないのだろうか。古典派経済学では生産時間(労働時間)こそ財の価値であると考えたわけだが、この考えはその逆に相当する。

そこまで考えたところで、驚くべきことに、PICSYにおける予算制約を消費時間価値形態論から解釈することが可能であることに気がついた。自然回収したあとの予算制約は、ちょうど配給チケットのようなものだが、これは一定時間ごとに自動的に増えていく。これはあたかも消費時間を蓄積してしているようなものだ。PICSYの場合、これに貢献度を掛け合わせたものが購買力になる。

課題をいくつかあげておこう。

・情報財をPICSYで扱うことが本当に可能なのか

・そもそも有効需要が問題になるのは、景気や非自発的失業が問題だからだが、この新しい予算制約は本当にこの問題を解決できるのか。決済貨幣では三面等価の原則が成立するが、これこそが有効需要が足りなくなる原因だといえる。PICSYでは有効需要が消費時間から生成されるのでこのようなことは起きない。

・奢侈財としての情報と生産財としての情報がある。後者の価格決定をどのようにすればいいのかは、あいかわらず変わらない気がする。

消費時間価値形態論は情報財に限らない。万物のサービス化が進めば、概念的にはあらゆる財において可能になる。

あまりにも通常の経済学と遠いところでの、この孤独な思索。