寺田寅彦1 物理学と感覚

絶対とか窮極の真理とかというものの存在を信じてそれを得ようと努力する人はこの点で第一に科学というものに失望しなければならない。

池上研合宿の、池上=佐藤論争とかぶった。

科学において唯心論はどう扱われるべきか。

ぼくの答えは「唯心論者を構成せよ」であって、唯心論自体を科学に導入すべきではない。

以下、冒頭の文を含む段落を引用する。

哲学者の中にはわれわれが普通外界の事物と称するものの客観的の実在を疑う者が多数あるようであるが、われわれ科学者としてはそこまでは疑わない事にする。世界の人間が全滅しても天然の事象はそのままに存在すると仮定する。これがすべての物理的科学の基礎となる第一の出発点であるからである。この意味ですべての科学者は幼稚ナイヴな実在派リアリストである。科学者でも外界の実在を疑おうと思えば疑われぬ事はないが多くの物理学者の立場は、これを疑うよりは、一種の公理として仮定し承認してしまうほうがいわゆる科学を成立させる筋道が簡単になる。元来何物かの仮定なしに学が成立し難いものとすればここに第一の仮定を置くのが便宜であるというまでである。絶対とか窮極の真理とかというものの存在を信じてそれを得ようと努力する人はこの点で第一に科学というものに失望しなければならない。科学者はなんらの弁証なしに吾人と独立な外界の存在を仮定してしまう。ただし必ずしもこれを信じる[#「信じる」に丸傍点]必要はない、科学者が個人としてこれ以上の点に立ち入って考える事は少しもさしつかえはないが、ただその人の科学者としての仕事はこれを仮定した上で始まるのである。もっともマッハのごときは感覚以外に実在はないと論じているが、彼のいわゆる感覚の世界は普通吾人ごじんのいう外界の別名と考えればここに述べる所とはあえて矛盾しない。

寺田寅彦「物理学と感覚」(大正六年十一月)より

科学をやるということは、ある種の仮定をたてて、そこから先に進むということである。その仮定は時には揺らぐが、揺らぎが止まった後からみたときに大きな意味で変わったことではなく、成された仕事の領域がより明確になるだけなのである。

こういうわけで私はアインシュタインの出現が少しもニュートンの仕事の偉大さを傷つけないと同様に、アインシュタインの後にきたるべきXやYのために彼の仕事の立派さがそこなわれるべきものでないと思っている。

もしこういう学説が一朝にしてくつがえされ、またそのために創設者の偉さが一時に消滅するような事が可能だと思う人があれば、それはおそらく科学というものの本質に対する根本的の誤解から生じた誤りであろう。

いかなる場合にもアインシュタインの相対性原理は、波打ちぎわに子供の築いた砂の城郭のような物ではない。狭く科学と限らず一般文化史上にひときわ目立って見える堅固な石造の一里塚である。

寺田寅彦「相対性原理側面観」 (大正十一年十二月)より

かく言うぼくも、科学に失望した人間の一人である。

失望ののち、それでもそのすばらしさに変わりがないことに気がつくのに、4年ほど時間を要した。

余計な道草であったが、以後、道に迷ったことはない。