何かと闘っている人々

大学時代の友人で文芸批評家を目指す藤山という男がいて、とにかく小林秀雄がすばらしいから読みなさいといわれて、「モオツァルト」「無常という事」くらいは読んだことがある。8年くらい前のことだが、まあ、こんなものかと思った。

それで先日、池上研の合宿で小林秀雄を聴く会というのを池上さんの指示でやらなくてはいけなくなって、講演会のテープを聴いてみたのである。やっぱり言っている内容は当たり前のことなのであるが、何かとても惹きつけられるものを感じた。

どうもこの感覚は最近感じたなあと思ったら、InterCommunication Centerのアーカイブ荒川修作のインタビューを観たときの感覚と同じなのである。

この二人は、ちゃんと「何かと闘っている」。

講演やインタビューとは名ばかり、何かと闘っている人の内語なのである。しかも、同じ問題でかれこれ30年ほど格闘してきましたという人々の内語である。惹きつけられないはずはない。

古く記憶をさかのぼれば、昔NHK教育埴谷雄高のロングインタビューが放映されたときや、はじめて郡司さんの話を聴いたときも、似たような感覚を受けたことがある。

昔、ケンブリッジウィトゲンシュタインが授業をしたときに、途中で哲学的問題を考え込んでしまって、授業の時間が終わるまでずっと沈黙のままだったらしい。その授業を受講した者は、きっととうとう話される講義を聴くよりも何十倍もの何かを学ぶことができたに違いない。

話し言葉には、内語としての思考のプロセスがそのまま露出することがある。そうした思考のプロセス、ダイナミクスを共有したときにのみ気づくことがあり、書き言葉では推敲の結果、ダイナミクスが死んでしまうのである。当然だが、推敲されることのなかった後期ウィトゲンシュタインの日記たちを読むと、思考のダイナミクスがそのまま紙に写像されているのを感じることができる。

そんなことを考えていたら、茂木さんが「脳と仮想」で小林秀雄賞を受賞したというのをきいた。生協の本屋でみかけたので、ぱらぱらとめくってみると小林秀雄について書かれた章があった。

すると茂木さんもぼくと似たような経験をしていて、本ではふんふん程度だったのが講演テープにはまったらしい。「俺は闘うぞ!」というのが芸風である茂木さんが、今日のNHK視点・論点で「小林秀雄に学ぶ話し言葉の魅力」というのを話すらしい。

昨今、何かと闘っている「振り」をしている人が多い中で、本当に闘っている人々の話し言葉を聴くと、胸がすくというか、すがすがしく姿勢が正される思いがする。現実のつまらないものに妥協しそうになったときに、こうした人々のテープと対話すると、きっと元気がでることだろう。