罪と疑い

チューリングの「計算する機械と知性」を久しぶりに読んだが、やはり面白い。

読みながら、機械に罪の意識をどのように持たせるかについて考える。

倫理の問題は、罪悪感という感覚をどのように処理するかという問題に帰結する。

小さいころ、謝ると罪悪感が減るのであえて謝らなかったことがある。

要するに責任をとるというのは、主体という他者をつくることによって罪悪感を抹消する最良の方法なのである。

自由と責任という共犯的な創造物が世界の因果関係を断ち切るのに対して、

罪悪感は自己が世界を引きずり回したまま離さない。

こうして、哲学と宗教は、自由と責任から決して生まれえず、罪悪感から生まれるしかないのだ。

責任という言葉には自己の揺らぎに対する疑いが存在しないが故に、常に空虚な響きを残しつつ、現実を作動させる力をはらむ。

「常に正しい」人々と話すと、こうした思いがめぐる。適応しかない人々。

ドストエフスキーでも読むかな。

感覚としての罪悪感と赤の赤さ、どちらが計算論的な土俵にのりやすいのか。

ヒュームの自然主義的誤謬の議論は衝撃を与えるが、そもそも倫理は命題の問題ではないことに気づかざるを得ない。命法は倫理の本質的な問題ではない。