飲み会における最適な人数について

昨日のsoftdrink飲み会はとても面白かった。

が、一次会に対して二次会は数十倍面白かった。

逆にいうと、一次会はそれほどよくなかったということだ。

この原因は明白である。一次的な原因としては飲み会の人数だ。

今回、一次会は17人、二次会は7人スタートで5人エンドだった。

つまり、飲み会における最適な人数は10人以下なのだ。

(結果的にいえば二次会はぼく、小野、田中、中嶋の4人で話していた。)

一次会の状況と二次会の状況を分析してみよう。

一次会は話題が散発的で、ひとつの話題について深く追求できなかった。

飲み会の人数が多かったので、一人のひととじっくり話すとか、話していくうちに議論が発展していくという様子がみられない。小野は、帰りの電車の中で、最初顔をあわせるという意味ではいいんじゃないか、と言っていた。なぐさめとしては気のきいたコメントだ。

一次会で帰ってしまう人がたくさんいたので、どの人とも話そうと思って予定調和的に短い話しかできなかった。

二次会は、「ベンチャー企業におけるオーナーと社長の関係について」「PICSY人事評価システムの長所と短所、適所、不適所」「ゲーム開発のガバナンスのあり方」「スクエアにとって映画は目的だった」「ハイパーマップの実装系について」など非常に面白い話が聞けたり、できた。議論の中で批判と共感を交えながら、その人の深いバックグラウンドやモノの見方がかいまみえる。大満足である。

これは、自分が聞きたいことや話したいことが全体の興味と一致しているかどうかは考えずに論を展開して、"結果的に"各々にとって深い興味があるときだけにおこる現象である。

さらにこの議論を進めると、認知におけるアクティブパーセプションの話をしなくてはいけない。今日、ちょうど指導教官の池上さんが国際シンポで話していた話なので、とてもタイムリーだ。事物の認知は受動的に行うのではなく、能動的に行われるという話だ。この考え方は、アフォーダンスという概念としてギブソンによって1960年代に提唱された。例えば、ナイフの形を目をつぶって触ることによって、それがナイフだということを認知するときに、受動的に皮膚のある場所にナイフのある場所が接触したとしても、それが何かは分からない。ナイフのほうが動いてナイフのいろいろな部位を皮膚接触したとしても、やはり分かりにくい。しかし、自分から手をいろいろと動かして対象物を探索することができれば、それがナイフだと認知することは比較的楽である。

議論におけるアクティブパーセプションは質疑応答だ。しかし、それが質疑応答だというように形式化されないほど自然に行われる人数のときに、状態は最適化される。さらに、議論における事物は客観的なものではなく、議論によって変形し進化するものである。そのような最適な人数というのは、おそらく4~5人だ。

実際には、大人数の飲み会でもよい議論をすることは可能だ。(実際、大学時代はいつもそうだった)

先日のGLOCOMのセミナーで終盤良質な議論ができた理由は、ぼくはあのとき東さんと白田さんだけを相手に議論していたのであり、それ以外の人を完全に無視していたからだと思う。そういう意味では、セミナーで大多数を無視するという手がある。

また、大人数がいてもローカルに議論をしているクラスターが複数あればいいわけである。つまり「飲み会でグローバルなインタラクションは邪魔である」ということが帰結する。飲み会はローカルなインタラクションでクラスタリングし、クラスターがトイレ等の中座をきっかけにして、ダイナミックに遷移するという状況が好ましい。本当に面白いと思っているときは、膀胱が破裂しても中座しないものだ。

学生時代はそういう良質な議論を毎日行っていた記憶があるが、最近は良質な議論をすることが少なくなった。そういう意味で、今日の二次会のような環境を毎週1回くらいはできないといけないなと思う。

ちなみに、次回からは一次会から24時間営業時間無制限の店にする。

飲み会についてこんなに分析をするなんて、自分はバカかもしれないと思いつつ。

しかし、これらはすばらしいものをつくるための必要条件なのだ。

革命が飲み屋から始まることは、歴史によって証明されている。