超貨幣論

リアルビジネスを体験する前のぼくにとって、貨幣論とはすなわち岩井貨幣論であった。なんとなく気がついていたのだけれど、その限界についてはっきりと意識するようになったのは、認知として貨幣論を見るということを意識し、お金をめぐる現場の人々の悲喜こもごものmanner(態度)を目の当たりにしてからだ。

岩井貨幣論を始めて知ったのは、数理科学か何かに掲載された安富歩の「貨幣の自生と自壊」という論文を読んだことがきっかけだったと思う。大学1年のときだから、もう10年以上前のことだ。当時、微分方程式によって社会も記述されうるということ知って喜んでいたレベルだったので、実体なき貨幣価値のなぞを前々から不思議に思っていたぼくにとっては、安富論文はとても面白いものに思えた。安富は岩井貨幣論を下敷きに実際にシミュレーションを行い、貨幣の自生と自壊の様子を表現した。

岩井は、マルクス資本論」の価値形態論を読み解くことを通じて、貨幣の起源は、貨幣法制説でも貨幣商品説でもなく、次の他者がその貨幣を受け取ってくれるという信念にあることを指摘し、旧来的な意味における起源問題を問えないということを示した。貨幣は貨幣だから貨幣であるという循環論法が貨幣の本質だということだ。

この合理的なロジックは次の他者の次の他者は貨幣を受け取ってくれるのかという無限退行をもたらし、特異点においては論理的な飛躍があることになる。柄谷は、これをマルクスの"命がけの跳躍"とクリプキの"暗闇の中の跳躍"の同相性というレトリックに活かした。

しかし、そこに跳躍はない。特異点から世界をみて驚きを覚えるのではなく、特異点は決して生成されないことに驚嘆すべきなのだ。

これらは、「フレーム問題は存在しない」「ホムンクルス問題は存在しない」「フィチャーバインディング問題は存在しない」「二次学習は存在しない」「チューリングテストは解き得ない」と同様な議論である。

発達心理学の見地から、幼児がいかにして貨幣の概念を獲得するのかをみてみれば、無限退行などどこにもないことが分かるだろう。そこにあるのはある種の認知的思い込みであり、バイアスである。貨幣に対する概念や操作の多様性は、認知的な問題なのである。

岩井貨幣論においても、他の貨幣論においても、経済主体は同一のロジックに基づいて行動することになっている。しかし、現実の経済主体は、貨幣という共通のプロトコルに対して、まったく異なった思い込みをしているにすぎない。

つまり、貨幣は、ある貨幣論を超えて(trans)、別の貨幣論と接続することが可能なメディア(trans media)なのだといえる。複数の貨幣論は共存する。逆に言えば唯一に正しい貨幣論というのは存在しない。貨幣論貨幣論が超えられてしまうことを超貨幣論と呼ぶことにすれば、これこそが貨幣の本質ではないか。

コミュニケーションの不可能性も、コミュニケーションはいたるところ特異点であることを例示することによって示されるのではなく、不可能なコミュニケーションがあたかもコミュニケーションされてしまうことを例示することによって示されなくてはならない。

言語の話に戻そう。言語は、intentionがそろっていなくても、あたかもコミュニケーションができているように見える点にその顕著な特徴がある。intentionを発明してしまった人類にとって、言語はそろわないintentionを媒介することができる便利な道具だったのだ。そして、貨幣はこの言語の性質を継承している。

最後に、貨幣における時間と運動について簡単に述べておこう。貨幣は止まっては貨幣ではなくなってしまう。つまり運動が存在に論理的に先行するいくつかの例(たとえば生命)のうちの一つである。貨幣のモデルにおいて時間を止めた者は誰もいないので、これは面白いかもしれない。しかしどうやるんだろう。