P171より
「これらの例が明らかにしているとおり、パースン、知能、記憶、学習といったことがらに関して、心理的な基層とか、さらに有機体的基層を探し求めたとしても、その企ては無駄であるに違いない。重要なのは、観察不可能なものに一定の意味を付与し、それをシステム間接触の創発的水準に移し変える、観察者の方策である。この意味付与とその移し変えがおこなわれ、観察される人がそのことを経験するなら、観察された人はこの経験をとおして、みずからの自己観察(この自己観察も同一の問題に直面している)をこの経験に指向させるように刺激されるのであり、それについての当を得た経験を積んだのちには、みずからパースンであり、知能と記憶を有しており、学習する能力等々を有していると思い込むようになる。そうなると誰もそのことに対して異議を唱えることはできない。なぜなら、誰も、こうした諸概念で言い表された以上に観察された人をより精確に観察できないからである」
そして、チューリング・テストと心の理論をこの話に接続しなければならない。
そしてそのようなことが可能な有機体的基層を再度検討するのだ。いわば、論考とは逆に、はしごを投げ捨てた後、はしごをかけるのだ。それが正しい構成論的アプローチだと思う。