表現の自由とソフトウェアの不自由、そして我々の自由について

47氏逮捕をめぐる昨今の言語空間について、ある種のコメントを出さなければならないだろうと思いながら、日がたってしまった。

飲み会サークルsoftdrinkのMLにjnutellaの川崎さんが熱いメールを送ってくれた。それに対してのgreeの田中良和@法学部政治経済学科卒からのレスを下敷きにして、議論を進めよう。

論点は、

・ソフトウェアの開発は、その目的によっては、法で制限されるべきであるか。

ということである。

ご存知のとおり、表現の自由に関しては、民主主義体制を健全に維持するためには必要不可欠なものとして、他の権利に比べて優先的に保護されているという話を大学時代、法学部法律学科の友達に聞いた。要は、同様の優先権を認めるだけの必然性がソフトウェアにあるかどうかだ。

ぼくの答えはNOだ。YESを目指しているとはいえ、現時点で実現しているというのは傲慢であろう。どうも、この業界の人の中ではぼくは最も保守的であるらしく、イラク戦争からwinnyにいたるまでマイノリティーらしい。第二に、表現の自由は直接物理世界に影響を与えるわけではないが、ソフトウェアはハードウェアを動かすことも多く、世界を「実行」executionする力を持っているため、放任するわけにはいかない。

この実行する力(power of execution)こそがソフトウェアの持っている魅力なのであり、ソフトウェアによる思想の表現は、その実行によって行われる。ぼくが、憲法が保証しているのとは違うレイヤーで、任意契約による新しい社会契約論を構築できるのではないかと考えている理由でもある。

一般に、既存の社会秩序と相反する争点になる場合、裁判官をはじめとする法律家がとるべき態度は2つある。ひとつは、社会秩序を根本的に変革するか否かというラディカルな立場で、もうひとつは、ビッグイシューにはなるべく踏み込まずに既存の法社会システムに対する最小限の変更を目指すミニマリズムである。

著作権の問題については、"現時点では"ミニマリズムで対応するのが好ましい。したがって、ソフトウェアの開発の自由を認めるべきであるという論点で争うべきではない。そもそも、科学技術倫理の世界においては、あのロスアラモスで原爆が研究されて以来、科学技術者にとって圧倒的に旗色は悪いのだ。

では、ミニマリズムにたった上で、今回の金子氏の逮捕は合理的なのだろうか。警察からの情報が少ないために早急な判断は下せないが、行政的実効性を求めすぎた逮捕である可能性がある。

著作権の問題が転換点にたっていないのは、決定的な代替案をだせない我々の怠慢であって、他人に責任転嫁をすべきではない。代替案がまだなくても、事態を先にすすめるために既成事実を積み重ねていくという金子氏の行動は、一種のテロリズムであったとしても、個人として認めていたいという気持ちは揺らぐものではない。

決定的な代替案とまではいかないかもしれないが、「情報財の対価」という問題へ、消費時間価値形態論という視点から、正面からアプローチしていきたいと考えている。超流通なども、このコンテクストから語るべきだろう。さらに、この理論に立脚した情報財の流通モデル(たまたまgumonjiで説明をしているのだけど、gumonjiに限らない。)を考えているのだけど、表に立つ人が見つからないので、現在放置中だ。

自由について述べるということをできるだけ避けたいと考えていた。というのは、いつか、自由意志をはじめとする自然哲学上の自由の概念と、社会哲学上の自由の概念を接合したいと思っているため、中途半端に自由という言葉を使いたくなかったからだ。

そんなことを考えつつ、ベルクソンの「時間と自由」を読む。自由とは何か、なぞは深まるばかりだ。