お金があれば分け隔てなく買えるのか

お金が買い手に依存せずに同じ価値をもって商品を買うことができるという幻想がある。これは貨幣の流動性と中立性と関係している。流動性とは、あらゆる財と交換できるために他の財に比べて価値が高いということで、ケインズによって強調された。中立性とは、同じ量の貨幣は誰がもっていても同じ価値を持っているということだ。

法貨には強制通用力というのがあるので、同じ価値をもつことが法的に保障されているのではないかと思うかもしれないが、これは「金銭債務の支払手段として拒否できない」という意味であって、その前提となる取引の契約関係については契約締結の自由があり、理由なしに販売を拒否することができる。これについてはここを参考に。

例えば部屋を借りるときは、家主がなにかと条件をつけてくる。年収がいくら以上とか、結婚しているかどうかとか、顔が気に食わないなどなどだ。オウム真理教などのカルト教団が部屋を借りようとしても、お金がいくらあっても借りられるものではない。

差別という視点でいうと、ハンセン病の患者が宿泊を拒否されたというのがニュースになっている。

お風呂やゴルフ場は刺青のある人はお断りだし、保険にはある条件の人は買えない商品があるし、年収1000万以上の人しかはいれないお見合い斡旋業とかもある。

どこが許されてどこが許されないのかというボーダーラインがなかなか難しいところだ。ただ、現実問題として貨幣の中立性は、必ずしも達成されているわけではない。それで差別を受けている人の民間サービスのアクセシビリティが落ちると考えられるところは、契約関係自体を拒否できないという法律をaddしているわけだ。

そういう意味ではPICSYな社会で販売を拒否することは契約の自由として認められるべきだろう。だが、一部の財やサービスに関しては、販売の拒否や人による価格の差別を法的に制限するべきかもしれない。その方法としては、原則自由、例外制限という形があいかわらず最適なのに違いない。