玉音放送を聴いた人々(IPAX Winter2004報告)

昨日、IPAX Winter2004で丸一日ブース展示をしてきた。毎度のことながら好評だった。

【戦果】

冊子を配った人:100人

直接説明した人:40人

名刺:17枚

アンケート8枚

来場者の年齢がとても高かったことが今回の特徴だ。IPA独立行政法人化の記念ということもあって、偉い人たちがたくさん集まっていたということもあるだろう。

blogで中嶋さんも(2004/1/21)書いてあることだが、65もすぎたおじいちゃんたちとたくさん話してきた。若い人とおじいちゃんの両方がブースにくると、「若い人と話さないと理解してくれないだろう」という先入観とは裏腹に、どうしてもおじいちゃんと話してしまう。これは、若者の目が死んでいるのに対して、おじいちゃんの目は感情に満ち溢れているからだ。人間どうしても、感動や好奇心がありありと目に現れた人と話したくなってしまう。

おじいちゃんたちは頭が固くて話を理解してくれないだろうと思いきや、彼らのほうが理解と賛同の度合いが深い。ITベンチャーを上場させ、相談役に引退した老人が、生涯のライフワークを探しに来ましたといって、「これはライフワークになるかもしれませんな。はっはっは」とか言ってくる。こんなに愉快なことはない。

おじいちゃんたちのほうが、PICSYに対して素直な見方で理解を示してくれるのは、彼らが劇的な社会システムの転換を経験しているからに他ならない。

彼らは、玉音放送を聴いた人々なのである。

一日にして、戦前の全体主義体制から戦後の民主主義体制に変わり、学校の先生や親は突然、前と逆のことを言い出すわけだ。彼らは社会システムとはいかなるものかを肌をもって知っているのである。いまイラクで起きていることやこれから北朝鮮で起こることが、まさにこれである。中国も文革から改革開放という流れの中で、いままさに経験している。

玉音放送を聴かなかったおじいちゃんたちの世代はまた違う。彼らの世代は理想の元に学生運動を展開していたので、社会システムを思弁的にとらえるが能動的でもある。

80近いおじいちゃんはまた違う。彼らの世代のエリートは旧制高校に入るわけだが、そこではデカンショデカルト、カント、ショーペンハウエル)を片手に、哲学・思想・政治を語ることは当然の教養とされていた(その最後の生き残りが中曽根康弘だ)。

いずれのおじいちゃんにも共通するのは、彼らは歴史書を読むのが好きだということだろう。世界の歴史を紐解けば、開けた広がりの中に「いま」の時代を位置づけることができる。

基本的に若者は視野が狭い。受験で部分最適化問題を解き続けてきた弊害なんじゃなかろうか。若者よ、書を読み、地球を歩き、酒を飲もう。