「アラン・ケイ」を読み込む

先日のエントリー「アラン・ケイ」を読むにはかなりの反響がありましたが、やはり、アラン・ケイ本人の言葉の迫力を伝えなくてはなりません。読んで興味はもったけど、本を買わなかったものぐさの人のために、先日のエントリーの文面そのままに、アラン・ケイ本人の言葉を引用しました。

収録されている論文は以下の4つです。

・パーソナル・ダイナミック・メディア

・マイクロエレクトロニクスとパーソナルコンピュータ

・コンピュータ・ソフトウェア

・教育技術における学習と教育の対立

アラン・ケイはパーソナルコンピュータの父と呼ばれますが、彼がその概念を発表した論文のタイトルは、パーソナル・ダイナミック・メディアです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。彼は、パーソナルコンピュータを「個人がメディアを作るメディア」と位置づけていました。「メディアを作るメディア」をメタ・メディアとも表現しています。

デジタル・コンピュータは本来、算術計算を目的として設計されたが、記述可能なモデルなら、どんなものでも精密にシミュレートする能力をもっているので、メッセージの見方と収め方さえ満足なものなら、メディアとしてのコンピュータは、他のいかなるメディアにもなりうる。しかも、この新たな"メタメディア"は能動的なので(問い合わせや実験に応答する)、メッセージは学習者を双方向な会話に引き込む。過去においては、これは教師というメディア以外では不可能なことだった。これが意味するところは大きく、人を駆り立てずにはおかない。

「パーソナル・ダイナミック・メディア」 P36

デジタル・コンピュータは本来、計算処理を行うために設計されたものだが、記述可能なものなら、どんなモデルでも詳細にシミュレートする能力があるため、シミュレーションの方法が適切に記述されているかぎり、メディアとしてのコンピュータは、他のいかなるメディアでもシミュレートできることになる。

「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」 P64-P65

シミュレーション

 シミュレーションは文字どおり、ダイナブックの中心概念といえる。これまではヴィジュアル・メディアとオーディオ・メディアのシミュレーションの例を見てきたが、こんどはユーザーの手になる、さまざまなシミュレーションを見てみよう。

アニメーターの作成したアニメーション・システム

(中略)

子どもが作ったドロウ・ペイントシステム

プログラム経験のまったくない少女が、ポインティング・デバイスで画面に絵が描けないのは、おかしいと考えた。彼女はわれわれのプログラムをまったく見ずに、スケッチ・ツールをつくった。指し示すだけで選択できるブラシのメニューをはじめ、彼女はつねに新しい機能を加えて、改造を繰り返していった。この少女はのちに、タングラムをデザインするプログラムも書いた。

(中略)

意思決定理論の専門家が書いた病院シミュレーション・プログラム

(中略)

音楽家がプログラムしたオーディオ・アニメーション・システム

(中略)

音楽家がプログラムした譜面作成システム

(中略)

高校生が作成した電気回路設計システム

(中略)

結論

 だれもがダイナブックを所有する世界が生まれたら、どういうことになるだろうか。そういう機械が、ユーザーそれぞれの目的に合わせて、その能力を鋳型にはめられるようなかたちで設計されたら、既存のメディアから、いまだ発明されていないメディアまで包摂する、新種のメディア--メタメディアが生まれることになる。

「パーソナル・ダイナミック・メディア」 P46-P56

第四はシミュレーション機能で、これはコンピュータの真の存在理由なのですが、リストの下位にきてしまいます。なぜか? きちんとしたシミュレーションを行うのは、プロのプログラマーをふくめ、ほとんどの人にとって、きわめて困難だからです。例外は、ビジカルクのようなシミュレーション・キットで、この種のものは、これから大いに増えていくことでしょう。問題は、キットというのは、つねにキットに適したことをやるようにデザインされていて、いまだに「キットをつくるキット」をつくった人間は誰もいない、ということです。"キット・キット"あるいは、"内蔵書記"とでもいうべきものが開発されないかぎり、シミュレーションが便利になることはないでしょう。

「教育技術における学習と教育の対立」 P135

わたしは、コンピュータとその利用というのは、基本的にはいまだかたちの定まらない芸術だと考えています。

「教育技術における学習と教育の対立」 P140

東さんや倫理研のテーマはメタ・メッセージであるのに対して、ぼくや設計研のテーマはメタ・メディアであるという比較が成り立ちます。メタ・メッセージは、ここに書かれているように、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」というようなメッセージを含むメッセージのことです。メタ・メッセージは印刷技術のメタファーの延長です。しかし、メタ・メディアはコンピュータ技術以降にしか存在しない概念であり、その起源は、1936年のTuring "On the Computable Numbers"であることは以前書きました。メタ・メッセージは水平的であり、メタ・メディアは垂直的だと言うこともできるでしょう。

マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」を半年間他のことを何もしないで読み込んだアラン・ケイは、コンピュータを"コンピュータ"と呼ぶことに違和感を覚え、"メディア"と呼ぶようになったのです。"コンピュータ"と同様に、"機械"、"道具"という言葉もアラン・ケイはコンピュータにふさわしくないといいます。

コンピュータは、他のいかなるメディア--物理的には存在しえないメディアですら、ダイナミックにシミュレートできるメディアなのである。さまざまな道具として振舞うことができるが、コンピュータそれ自体は道具ではない。コンピュータは最初のメタメディアであり、したがって、かつて見たこともない、そしてもいまだほとんど研究されていない、表現と描写の自由をもっている。それ以上に重要なのは、これは楽しいものであり、したがって、本質的にやるだけの価値があるものだということだ。

「コンピュータ・ソフトウェア」 P118

ナンセンスのシミュレーションなどを考えるのは、ほとんど罪悪とも見えるかもしれない。だが、それが罪悪になるのは、自分に知識が正確で完璧だと信じたい場合だけだ。歴史は、そういう考え方を肯定する人間に対して寛大ではなかった。この明白なナンセンスこそ、将来の意欲的な人々のために、つねにオープンにしておかなければいけない分野だ。パーソナル・コンピュータは、われわれが望むどんな方向にでも発展させられるが、真の罪悪は、機械でも相手にするようなつもりで、コンピュータを使うことなのである。

「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」 P91

コンピュータは道具ではありません。道具というのは、コンピュータの性格づけとしてはあまりにも不十分です。コンピュータの場合、道具というのは、それを様々なレバーや梃子に変換するプログラムのことなのです。コンピュータそのものは、紙のようなメディア--とてつもなく自由自在で、コンピュータの発明者が理解することもできなければ、そうする必要もないほどさまざまなかたちで利用され、人々の世界観を根本的に変えるものなのです。書物と同じように、この変化は、かならずしも「よい変化」とは限らないし、人間の知的能力を大幅に増大させるとも限りません。たんに、われわれのやり方を、ある状態からべつのものに変えるにすぎません。

「教育技術における学習と教育の対立」 P130

では、パーソナルコンピュータが「メディアをつくるメディア」すなわちメタメディアだとして、それが印刷技術のように普及するということはどういうことなのでしょうか。そのことを議論するために、アラン・ケイは"コンピュータ・リテラシー"という言葉を作り、識字率を100%に上げるがごとく、世界中の人がこのリテラシーを持つべきだと宣言しました。

コンピュータリテラシーとは、すなわち、コンピュータを使いこなす技術のことですが、ここでいう"使いこなす"というのはどういうことなのでしょうか。それは決して、コンピュータ上のメディアでメッセージやコンテンツを作ることではありません。それでは、「メディアを作るメディア」としての特徴を活かしていないからです。

つまり、アラン・ケイの定義によれば、2chはてなmixiでメッセージを送信しあったり、WordやExcelで文書を書いたり、IllustratorPhotoshopでかっこいいコンテンツを作成しても、コンピュータ・リテラシーを持っていないことになります。

では、プログラムを書く技術があればいいのでしょうか。アラン・ケイは「プログラムは勉強さえすれば誰でも書ける」といいます。つまり、世の中にいるほとんどの職業プログラマーはコンピュータ・リテラシーを持っていないということになります。

では、誰がコンピュータ・リテラシーを持っているのでしょうか。アラン・ケイを代弁すれば、それは、はてなの開発者の近藤さんgreeの開発者の田中さんのような人ということになるでしょう。近藤さんは、はてなを作る前にプログラムの素養はほとんどなく、プロのカメラマンでした。田中さんは理系でさえなく、大学時代は法学部政治学科でした。彼らはそれにも関わらず、メタ・メディアを使ってメディアを作ったのです。

専門家ではないユーザーでさえも、たぶんまちがいなく、なんらかのプログラミングをしなければならないことである。

「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」 P66-P67

第二のものは、子どもたちを対象にした、シーモア・パパートのLOGOの研究だった。もはや、コンピュータが専門家の独占物である時代は終わったのだった。設計さえ適切なら、コンピュータはだれにでも使えるものになるはずだ!

「あのころはどんな時代だったのだろうか?」 P17

こうしたアイデアは、リタラシーを、ダイナブックの"コンピュータラシー"の強力なメタファーとして利用する方法の考察へと、そのままつながっていった。"読書"はどのようになるだろうか。"執筆"はどうか? そして"スタイル"は?

"執筆"は疑問の余地がなかった。これはテクスト編集(当時はワードプロセッシングと呼んでいた)ではなく、なんらかのプログラミングのようなものを意味した。この機械のエンドユーザーは、"コンピュータ作品"の作者たちになるだろう。したがって、パパートのLOGOの概念に近いが、増幅の道具をつくるための完全な表現メディアとして、マシン全体へと拡大されたものになる。

「あのころはどんな時代だったのだろうか?」 P19

コンピュータ・リテラシーというのは、ワードプロセッサや、スプレッドシートや、最新のユーザーインターフェイスの操作を覚えることではない。これはいずれもペンや紙のたぐいにすぎない。プログラミングを学ぶことですらも、コンピュータ・リテラシーではない。プログラミングなど、文章を書くかわりに、文法を学ぶのと同じようなうっとうしい方法で、いつでも学ぶことができる。

コンピュータ・リテラシーというのは、コンピュータでの読み書きに相当する能力を流暢なものにし、そして、楽しいものにできるほど、充分に深くコンピュータと接することをいう。あらゆる芸術と同様、「素材との恋愛」は充分に深めなくてはいけない。芸術や学問の生涯にわたる習得が、個人や社会の成長のスプリングボードになると考えるなら、コンピュータをわれわれの生活の一部にするために、相応の努力が必要ではないだろうか。

「コンピュータ・ソフトウェア」 P120

しかし、彼らのような人たちは強い意志と優れた能力を持った特別な人たちだと人は言うでしょう。確かに10万人を超えるメディアを全員がつくるのはほとんど矛盾です。そうではなく、誰でもが自分のためにメディアを作れるようにするためにはどうすればよいか、アラン・ケイは考えました。そして、はじめての完全に動的なオブジェクト指向言語smalltalkはそのようにして発明されたのです。

そのため、この四年間に250人ほどの子どもたち(六~十五歳)と、50人ほどの成人を研究室に招き、スモールトークの各種ヴァージョンを試用してもらい、改良点について意見を述べてもらった。彼らがつくったものは想像力に富み、彼ら自身と同様、非常に多種多様で、たとえば、家計簿、情報保存/検索、教育、ドローイング、ペインティング、音楽合成、文書処理、ゲームなどのプログラムが生まれた。

「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」 P72

アラン・ケイは、はじめから"誰でも"を子供たちにまで広げて考えていました。子供たちでも立派に文章は書けます。ですから、子供たちでも立派にメディアを作れるはずだと考えたのです。

教育ソフトのことが心配なら、子どもたち自身にプログラムさせたらよいではないですか。きちんとしたプログラム言語を使えば、子どもにもできます。

「教育技術における学習と教育の対立」 P138

子どもをユーザとして見るのは、さまざまな観点から大変意欲を刺激されるものだった。第一に、子どもにきちんとしたプログラムを書けるのは疑問の余地がない。

「パーソナル・ダイナミック・メディア」 P38

この研究から、六歳の子どもをユーザーとしてまじめに考えれば、パーソナル・コンピュータ、とりわけ、表情豊かなコミュニケーションを必要とするものを設計するうえでの問題の多くが、非常に明瞭になることがわかった。

「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」 P68

子どもというのは、喜びと驚きの感覚をあまり失っていないので、われわれがコンピュータに関する倫理を発見する助けになってくれた。自分の仕事そのものを自動化してはいけない。素材だけにとどめるべきだ。絵を描くなら、描く作業を自動化するのではなく、新しい画材をつくるためにコンピュータをプログラムすべきだ。音楽を演奏するなら、自動ピアノをつくるのではなく、新しい楽器をプログラムすべきだ。

「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」 P90

そしてアラン・ケイは、コンピュータを教育の道具として使うのではなく、コンピュータを道具として教えるのでもなく、「メディアを作る」教育をすることが極めて重要だという知見に基づいて、優れた教育論を展開したのです。

コンピュータリテラシーのもたらす変化は、読み書きの能力と同じくらい深甚なものになるかもしれないが、この変化は大部分の人にとっては認識しづらく、しかも彼らが理想とする方向にいくとは限らない。たとえば、パーソナル・コンピュータには教育革命を起こす潜在能力があるというだけの理由で、実際にそうなると予測したり、期待したりするべきではない。電話、映画、ラジオ、テレビといった、今世紀に生まれたコミュニケーション・メディアは、すべて同様の予測を引き起こしたが、どれも現実のものにはならなかった。世界中に数え切れないほど存在する教育のない人たちは、その気があれば、何世紀にもわたって文化を蓄積してきた公共図書館を利用できるのに、そうしようとはしない。だが、ひとたび個人あるいは社会が、教育こそすべてだと考えれば、書物、そしてパーソナル・コンピュータは、もっとも重要な知識の伝達手段となるだろう。

「マイクロエレクトロニクスとパーソナル・コンピュータ」 P79

『危機に瀕する米国』リポートは、中学高校のあいだに、理科を三年間、数学を三年間、そしてコンピュータを半年間勉強すべきだといっています。だれがこれを書いたにせよ、この著者はコンピュータが実際にはどういうことに役立つかということに関しては、まったくなにも知らない人です。半年間のコンピュータ教育というのは、自動車教習みたいなものです! まるで、紙と鉛筆の使い方を習うのは、高学年になるまで待たねばならない、というようなものです。じつのところ、コンピュータは理科を学ぶには最適のメディアなのです。しかし、決定的な質問は、たとえば、「ニュートンはどういうことをしたでしょうか?」というように、学校で科学史を教えているのか、それとも子どもたちが物理学者になるようにしているのか、ということです。

「教育技術における学習と教育の対立」 P130

紀元1300年、まだ印刷が発明される以前には、ギルドに属していない人間はどこかの部屋へいき、自分に話しかける人間の言葉に耳を傾けました。これは学校と呼ばれていました。そこへBOOK(Basic Organization Of Knowledge)という、ソリッドステート方式、容量2.5MB、運搬きわめて容易、1メガあたり1ドルという低価格のすばらしい装置が発明されました。1億カートリッジほどの種類があり、ほとんどどこででも手に入れることができました。これは教育・学習用のすばらしい道具ですが、今世紀になっても、この道具をほんとうの意味でカリキュラムに組み込むことすらもできていないのです。じつは、教師はいまだに紀元1300年にしがみついているのです。

 わたしがもう少し変質的な人間なら、現代の教育界のエスタブリッシュメントたちは、読書というものをわざと退屈でうっとうしいものに変え、学習者の書物に対する関心を根絶やしにすることによって、自分たちの仕事の安泰をはかっている、と考えているところでしょう。現代の学校とは、どのようなものでしょうか? 30人の人間が他の人間が話すのを聞く部屋--まるで中世そのままじゃないですか!

 「教えること」--わたしは教師の壷から生徒の壷へと、数リットルぶんの知識が注ぎ込まれる、といった流体理論のようなものを思い浮かべます--と、「学習の概念」--学習者の内部で起こるなんらかのプロセスを暗示します--とのあいだには、とてつもなく大きな違いが横たわっている、ということを申し上げておきます。たまたま、わたし自身は後者の見方を好みますし、われわれが後者のほうに賛同するなら、こちらに集中すればいいじゃないですか。コンピュータ利用教育と呼ぶのはやめましょう。コンピュータ支援教育と呼ぶのもやめましょう。かつてはそう呼ばれていたわけです。

「教育技術における学習と教育の対立」 P138-P139

ミンスキーはまた、「ともするとわれわれは、学生が新しいパラダイムを発見するのを助けるかわりに、恐ろしい新種の病気に対して免疫ができるように、構造化プログラミングというワクチンを注射してしまう傾向がある」ともいっています。構造化プログラミング? いかに書くか(レトリック)を心配するまえに、何を書くべきかを考えなくてはなりません。

「教育技術における学習と教育の対立」 P140

要約しましょう。わたしたちの関心の対象は、コンピュータを利用した学習です。パヴルのいうように、世界を理解するには、それを組み立ててみなければなりません。それも一回ではなく、三回組み立てねばなりません。最初は筋肉を使って、つぎにヴィジョンによって、そして最後に、目の前の現実を超越させてくれるシンボルによって、世界を組み立てるのです。だから、コンピュータと学習ということでなにかするつもりなら、この点をはじめから目標に組み込んでおかねばなりません。

「教育技術における学習と教育の対立」 P142

アラン・ケイ」は極めて一貫した思想の持ち主であり、以上のことは4つの論文に散在した内容ですが、一貫した流れの中で理解しなければならないのです。「パーソナルコンピュータ」「オブジェクト指向」「コンピュータ・リテラシー」「教育論」「メディア論」は、彼の別々の仕事ではなく、一つの仕事なのです。

すなわち、「『すべて』の人々がメッセージだけでなく『メディアを作る』ことができるようになるためにはどうすればいいか」、ただその一点に集約されます。アラン・ケイがすばらしいのは、このくるったテーゼを実現するために、人生をかけ、そして未だ実現していないことを理解して走り続けていることです。