生産性の向上は現代文明にとって、もはやどうでもよい

「生産性の向上は現代文明にとって、もはやどうでもよい」ということは何度言っても言い足りない。

僕自身が、会議の生産性向上のためにeXtreme Meetingなどというものを提唱したり、PICSYで生産性が向上します、などという話をするが、本心がそこにあるわけじゃない。

生産性の向上へのあくなき追求は、資本主義社会の病理のようなもので、しらふで「生産性が向上します」などと喜々として説明している人は、いわば病人である。そう人には「ああ、自分は病人なんだなあ」とせめて自覚してほしい。

200年前であれば、生産性の向上はダイレクトに人々の幸福に結びついていたかもしれない。

現代において、生産性の向上は、人間社会の問題をつくる原因でさえありうる。

生産性の向上は、何かを変えるきっかけにはなりうる。

きっかけはあくまできっかけであり、どう利用するかがポイントだ。

同様に、最適化という言葉を使うひとにもげんなりする。

ぼくも時々使うのだけど、心ある人はげんなりしてるんだろうな。