「論考」考

江島さんのblogを読んで、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」について昔思いついたアイデアを思い出した。野矢さん論理哲学論考でゼミをしていたころに、もぐっていてちょっと考えたことがある。

「論考」は、世界の事態と言語の関係について考察している。そいつらを全部、真偽値表(これはヴィトゲンシュタインの発明)で表現するわけだが、その表現する情報量は世界そのものよりも大きいということに気がついた。ここでいう世界そのものというのは、たとえば世界中の原子の配列によって情報表現をするといったようなものだ。

結局世界の事態を言語として表現するのに世界そのものが必要になるのだから、たまったものではない。この困難さを対象にするから複雑系の存在理由があるんだろう。いまさら「論考」について論考する気にはなれないので、これくらいにしておこう。

しかし、mojixはなぜ論理実証主義が好きなんだろう。あんなに魅力のない哲学もないと思うが。

それはともかく、科学にしても文学にしても、閉塞感を打破できないのは、自らの責任だとして努力するしかない。甘んじていてはいけないのである。来年は2005年。あの伝説の1905年から100年である。