「InterCommunication 2006年summer ブックガイド 情報と世界を読む想像と創造のために」に寄稿した文章です。ヴァネバー・ブッシュとアラン・ケイについて紹介しています。
この作品は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
***********************
Web2.0を考えるための古典
ティム・オライリーらが普及したWeb 2.0という言葉は、統一的な定義を与えようがないけれど、どこかすばらしく感じる、最近のWebのトレンド全てに貼られたものだ*1。
しかし、その中心的な性質を一点だけ述べるとするならば、この世界を論じるための土俵が、コンテンツのレイヤーからアプリケーションのレイヤーに一段階上がったことである。このアプリケーション化によってコンテンツはデータとして扱われ、人間にとって可読なWeb(Web 1.0)から、機械にとっても可読なWeb(Web 2.0)への変化は、Webをプラットフォームへと推進する。
こうしたデータは、ソーシャルウェアと呼ばれる新しいソフトウェア群によって連携される。ロングテールや集合知は、その結果として起きた現象だ。したがって、Web 2.0を考えるにあたっては、こうしたソーシャルな話題を扱った本を取り上げるのが普通であろう。
だが、今回は、この業界の古典ともいえる論文を読み込んで、そこから光をあててみたい。
Webが「くもの巣」であることからもわかる通り、Web 2.0で注目されているWebをネットワークとして見る視点は、ほとんど先祖がえりである。その先祖にあたるのが、ヴァネヴァー・ブッシュが1945年にアトランティック・マンスリーに発表したの"As We May Think"という論文である。日本語では、西垣通編著の「思想としてのパソコン」(NTT出版,1997)に収録されている。
この論文では、有名な"memex"が導入される直前に、脳の網目状経路が実現する連想作用と図書館のような階層型索引システムとの違いが議論される。神経回路がネットワークなのだから、人間が情報選択するときもネットワーク的にしてしまえばいいという発想から、"memex"は生まれてくる。これが"As We May Think"(われわれが思考するごとく)というタイトルの解題にあたる。外部世界のほうに神経回路をあわせるのではなく、外部世界を神経回路にあわせてしまおうというIAの思想はここにはじまる。
西垣がこの本の序文で鋭くも指摘するように、コンピュータをめぐる人間の知的関心は、人工知能(AI:Artificial Intelligence)と知能増幅(IA:Intelligence Amplifier)の二つの流れがある。IAの保守本流は、ヴァネヴァー・ブッシュ⇒ダグラス・エンゲルバート⇒アラン・ケイと連なり、スティーブ・ジョブズによってついに商業化に成功する。
現在のIAの動向がブッシュによってどこまで予見されていたかを"As We May Think"に見ようとすると、そのあまりの網羅っぷりに読者は驚くことだろう。情報過多と認知限界、チープ革命、ウェアラブル・コンピューティング、ワイヤレス・コンピューティング、mathematica、wikipedia、ペンインターフェイスなどなど。最後には、世界を電気信号のネットワークとして見ており、神経回路と外部世界を直接つないでしまおうという発想から、神経接続の可能性にまで触れている。
世界をネットワークとして見ると、ネットワークには独自の距離があることが了解できる。GoogleのPageRankをとってみればわかるとおり、検索の本質は、この距離を測ることにある。検索とリコメンデーションとフィルタリング、ハイパーリンクは、その意味で区別できない。
たとえば、クエリーフリーという検索パラダイムがある。普通の検索が、入力フォームにキーワードを入れて検索ボタンを押すのに対して、クエリーフリーでは、文字を入力する先からWeb検索の結果をたちどころに表示することができる。この無意識の検索は、入力補完などによってすでに実用化されているのだが、これを検索だと気づく人は少ない。
同様に、ハイパーリンクをダイナミックに検索することも可能だ。はてなのオートリンクは、ハイパーリンクを準動的に生成している。性能の問題さえ気にしなければ、検索結果の選択も含めて完全に動的にすることさえ可能だ。通常の静的なハイパーリンクは、最もシンプルな検索である。ブッシュが"As We May Think"の中で、ハイパーリンクのことを検索の一部とみなしていることは注目に値する。
ある文字列と最も近い距離のドキュメントを作者が指定したものがハイパーリンクである。距離の近い順に全て列挙すれば検索と呼ばれ、距離の近い最初のいくつかを絞って表示すればリコメンデーション、距離が遠いものすべてを削除して表示すればフィルタリングと呼ばれる。SNSは人間関係に基づいて世界の距離を計算できると仮定し、それをインターフェイスのレベルにまで落としたものだ。
しかし、これらはすべて、世界の距離を計算していることに他ならない。あとはユーザ・インターフェイスによって呼ばれ方が異なるだけだ。すべては検索なのだ。Web 2.0はこういった広い意味での「検索」の時代である。しかし、その重要性は60年以上前に予見されていた。
**********************************
もう一冊の本を紹介しよう。アラン・ケイの論文集「アラン・ケイ」(アスキー出版局,1992)である。「パーソナル・ダイナミック・メディア」「マイクロエレクトロニクスとパーソナルコンピュータ」「コンピュータ・ソフトウェア」「教育技術における学習と教育の対立」の4つの論文が収録されているが、全く異なるテーマを扱っているように見えて、アラン・ケイの主張はたったひとつである。
パーソナルコンピュータの父と呼ばれるアラン・ケイが、その概念を発表した論文のタイトルは、「パーソナル・ダイナミック・メディア」である。パーソナルコンピュータとはパーソナル・ダイナミック・メディアにつけられた別称である。彼は、パーソナルコンピュータを「個人が動的にメディアを作るメディア」すなわちメタ・メディアと位置づけていた。
マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」を半年間他のことを何もしないで読み込んだアラン・ケイは、コンピュータを"コンピュータ"と呼ぶことに違和感を覚え、"メディア"と呼ぶようになる。そして今までのどのメディアとも違うのは、それがメディアを作るメディア、メタ・メディアであるという洞察に至る。
パーソナルコンピュータが「メディアをつくるメディア」すなわちメタ・メディアだとして、それが印刷技術のように世界にあまねく普及するというのは、どういう状態なのだろうか。そのことを議論するために、アラン・ケイは"コンピュータ・リテラシー"という言葉を作り、識字率を100%に上げるがごとく、世界中の人がこのリテラシーを持つべきだと宣言した。
コンピュータリテラシーとは、すなわち、コンピュータを使いこなす技術のことである。だが、ここで"使いこなす"というのは、決して、コンピュータ上のメディアでメッセージやコンテンツを作ることではない。つまり、アラン・ケイの定義によれば、2chやはてなやmixiでメッセージを送信しあったり、WordやExcelで文書を書いたり、IllustratorやPhotoshopでかっこいいコンテンツを作成しても、コンピュータ・リテラシーを持っていないことになる。それでは、「メディアを作るメディア」としての特徴を活かしていないからである。
では、プログラムを書く技術があればいいだろうか。アラン・ケイは「プログラムは勉強さえすれば誰でも書ける」といいう。つまり、世の中にいるほとんどの職業プログラマーはコンピュータ・リテラシーを持っていないということになる。
アラン・ケイを代弁すれば、はてなの開発者の近藤淳也やgreeの開発者の田中良和のような人はコンピュータリテラシーをもっていることになる。近藤氏は、はてなを作る前にプログラムの素養はほとんどなく、プロのカメラマンであった。田中氏は大学時代は法学部政治学科出身で理系でさえなかった。
しかし、彼らは強い意志と優れた能力を持った特別な人たちだと、人は言うだろう。確かに、ユーザが10万人を超えるメディアを誰でもがつくれるというのは、ほとんどありえないことだ。そうではなく、誰もが自分のためにメディアを作れるようにするためにはどうすればよいか、アラン・ケイは考えた。はじめての完全に動的なオブジェクト指向言語smalltalkはそのようにして発明されたのである。
アラン・ケイは、"誰でも"をはじめから子供たちにまで広げて考えていた。子供たちでも立派に文章は書ける。だから、子供たちでも立派にメディアを作れるはずだと考えた。そしてアラン・ケイは、コンピュータを教育の道具として使うのではなく、コンピュータを道具として教えるのでもなく、「メディアを作る」教育をすることが極めて重要だという知見に基づいて、優れた教育論を展開した。
「アラン・ケイ」は極めて一貫した思想の持ち主であり、以上のことは4つの論文に散在した内容だが、一貫した流れの中で理解しなければならない。「パーソナルコンピュータ」「オブジェクト指向」「コンピュータ・リテラシー」「教育論」「メディア論」は、彼の別々の仕事ではなく、一つの仕事「『すべて』の人々がメッセージだけでなく『メディアを作る』ことができるようになるためにはどうすればいいか」、ただその一点に集約される。
その環境は、Web 2.0以降の世界において、どのように実現されるのだろうか。ユーザがメディアをつくれるメディタの萌芽はいくつかみられる。ning.comは、誰でも人のソースをコピーしながらソーシャルウェアの開発・運用ができるというサービスだ。salesforceのAppExchangeはエンタープライズの世界でそれをやろうとしているし、secondlifeは3Dオンラインゲーム空間上でオブジェクトの挙動をユーザがコーディング可能とし、次世代のWebを予感させる。
このような新しい潮流は、Web 2.0の先にあるもののように見えて、実は古典の中に埋もれている。もちろん世界の進行の微分を感じ取ることも重要だが、時には骨太な古典の中から次になすべき仕事を考えてみたい。
*1 ティム・オライリーによるWeb 2.0の論考「Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル」は、CNET Japanで翻訳されたものが読めるので、そちらを参考にしてほしい。
http://japan.cnet.com/column/web20/story/0,2000055933,20090039,00.htm
http://japan.cnet.com/column/web20/story/0,2000055933,20090424,00.htm