「私的所有の生物学的起源」とPowers of Ten

Danさんから「私的所有の生物学的起源」について、

細胞膜が私的所有の生物学的期限というのは、素晴らしい着想だと思う。私も実は常々考えてきたのだが、先に言ったもの勝ちである(とはいえ、鈴木氏より前に似たようなことを言っていた人もいたように思える)。

404 Blog Not Found: 「私的所有の生物学的起源」がWeb1.0的すぎる件について

と言われてしまいましたが、おそらくぼくのオリジナルのアイデアはほとんどないかと思います。すでに多くの生物学者や認知科学者、複雑系・人工生命研究者によって言われていることをまとめただけです。細胞のあたりについては僕自身はヴァレラや小野直亮さんに影響を受けましたが。

しかし、「核が制御の遺伝学的起源」あたりから、生物学的な事実誤認が目立つ。原核生物には核はないが、立派に細胞内環境を制御している。生物の発生そのものが、制御の生物学的期限なのは明らかだ。目の付けどころはよくても、検証がずさん過ぎやしないか

何をもって生物の誕生とみなすかは、生物学者によって意見がわかれると思いますが、膜の複製が先かRNAの複製が先かでまだ結論がでていないようです。この辺からしてすでに難しいんだよな。とまあ、なやましいところは多々あって、まだまだ検証が必要なのは事実です。

あと、一時停止もコマ送りもできないメディアによるプレゼンテーションというのも首をかしげる。議論のたたき台にしたいのであれば、もっと再利用が簡単なベタtext+図版の方がいいだろう。「小自由度が大自由度に影響」など、よい視点はたくさんあるのだから、再利用をもっと考えた方がよいのでは。

ちなみに「小自由度が大自由度に影響」は、やはり金子さん周辺の影響かと。

議論のたたき台にしたかったというよりは、チャールズ&レイ・イームズPowers of Tenみたいなのを作りたいと思ってます。(DVDをお買い上げくださいね。大画面に投影すると幸せな気分になれますよ。)

Powers of TenもA Rough Sketch (1968) というのがあって(もともとかなり完成度は高いですが)、IBMからファンドをゲットして1977年に正式バージョンを制作したという経緯があります。そういうわけで、完成度が低いままラフなバージョンを公開したのは、興味のある人から制作のためのファンドを得られたらいいなと思ったからでもあります。

Flashのバージョンもまだ手を入れてますが、web1.0といわれないように、しばらくしたらムービーにはきだしてyoutubeにもUPして、Symvieを利用してブログにもはっつけようと思ってます。

それまでまてん!という人は、もりっちが文字のところだけ抜き出してますので、参考にしてください

私的所有の生物学的起源

スピーカーをONにしてご覧ください。

私的所有の生物学的起源のエントリー以来、構想1年。鈴木kskくんと、渋谷慶一郎さんの協力を得て実現しました。まだまだなので、いつぞやバージョンアップしたいと思ってます。

初上映はisedの最終回。こちらの議事録ももう少しでUPされる予定です。

ロングテールを集める民主党

先週のCBSドキュメントは、ケーブルテレビ番組「コメディーセントラル」の政治風刺で人気のアメリカのコメディアンのスティーヴン・コルベールだった。

ここに非常に印象的なシーンが登場する。彼は民主党の全国大会にくりだして、ゲイや環境運動家、黒人などのマイノリティーを集め、ディスカッションをさせる。「団結が大事だと思いますか?」という質問に対して、「大事だと思う」と口をそろえて言う民主党員たちに対して、「じゃあ、そこの彼、ゲイの彼に対してキスしてみて」。指示された彼はしりごみして大爆笑というくだり。

なるほど、リベラルというのはたこつぼロングテールだということか。ロングテールのちりを集めているのが民主党で、ヘッドで勝負をしているのが共和党、そう考えると分かりやすい。ヘッドに対しては価値遡及的で単純なメッセージになり、テールに対しては価値中立的で複雑なメッセージになる。

たこつぼ有利のネット情勢は、世界を複雑化可能な方向にもっていくように見えるが、ロングテールは局地線的な問題系にすぎないため、事の本質はそう簡単ではない。

クリエイティブ・コモンズ・ジャパン 第2回セミナー開催予定

クリエイティブ・コモンズの世界動向や、ビジネス化に興味のある人はぜひどうぞ。

http://www.creativecommons.jp/news/2006/07/12/post_8.html

クリエイティブ・コモンズ・ジャパン (CCJP) は日本において柔軟な著作権システムであるCreative Commonsライセンスの法的有効性を担保し,その普及に務める団体です.CCJPは月例で,クリエイティブ・コモンズに関する情報を提供する公開セミナーを東京で開催しています.

次回は7月14日(金)に「iSummitのご報告 〜 世界のクリエイティブ・コモンズの動きと未来」という題目で,ブラジルで行われたCreative Commons世界会議の報告プレゼンテーションを行います.

ブラジル文化大臣でトロピカリズモ運動の提唱者の一人でもあるジルベルト・ジル,の『Free Culture』,『Code』などの著作で知られる創立者ローレンス・レッシグ教授,世界最大のオンライン百科事典「Wikipedia創立者ジミー・ウェールズ氏,SF作家でありブログ「Boing Boing」のライターでもあるコリー・ドクトロー氏などが参加し,世界中の様々な自由文化の事例が共有された会議についてご報告します.

またスペシャル・ゲストとして,クリエイティブ・コモンズのビジネス・デベロップメント担当者にして,近年は米国MITのOne Laptop Per Child (OLPC) プロジェクトにも携り,Macromedia Flashコミュニティ界のベテランでもある Pete Barr-Watson氏に,OLPCCreative Commonsの連携についてプレゼンして頂きます.

Pete Barr-Watson:

http://creativecommons.org/about/people#62

One Laptop Per Child:

http://www.laptop.org/

直前のご案内で恐縮ですが、ご興味のある方は、ぜひご参加ください。

日時: 7月14日(金) 午後16:00から18:00(進行に応じて多少の延長あり)

場所: 学術総合センター 12階 会議室 (当日、看板などでご案内します)

101-8430 東京都千代田区一ツ橋2-1-2

http://www.nii.ac.jp/map/hitotsubashi-j.html

定員: 最大60名まで

参加方法: 

お名前、所属、ご連絡先メールアドレスをご記入の上、

info AT creativecommons DOT jp までご連絡ください.

*セミナー後の懇親会は、予算を食べ物・飲み物込みで5000円以内になるように,学術総合センターに近い神保町近辺のお店を手配する予定です.こちらのほうも、ご都合があえば是非ご参加ください.

「ウェブ進化論」考 3.Web2.0と新しいフォード主義

智場に寄稿したAmazon Mechanical Turk論です。Project GEETSTATEにも引き継がれる問題意識を書きました。

Web2.0と新しいフォード主義

で全文が読めます。

Google AdSenseAmazon Mechanical Turkは,新種のフォード主義を社会にもたらすかもしれない.フォードは20世紀初頭に,部品の規格化,製造工程の細分化(流れ作業化)とベルトコンベア方式を採用して,T型フォードを安価に大量生産することに成功した.

 この生産方式をフォード・システムというが,フォードがもう一つ革新的だったのは,彼が独特の労働観を持っており,当時としては破格に高い賃金を労働者に支払い,自社の労働者が自社のT型フォードを買えるようにしたことである.フォード・システムにより低価格で高品質な製品を大量生産し,労働者に高賃金を払う経営理念を「フォード主義」という *2 .

中略

もう一つの問題は,このように極度に分業化が進んだ社会においては,人間が,働くことの意味から切り離されてしまうことである.自分のやっている仕事の意味が見えなくなり,社会から想像力が失われていく.著者が提唱する伝播投資貨幣PICSYは,貨幣レベルに伝播性を導入することにより,このような社会においても想像力が展開されることを目指したものだ.

 今回掲載の対談において,公文俊平は,情報社会で展開されるのは極度の分業ではなく,むしろDo it yourselfのような自前主義を促進するパーソナル・フアブリケーター(個人用工作機械)であると言う.これは,フォード生産方式ではなく,最近流行しているセル生産方式に近い.セル生産方式とは,屋台のような作業場で,一つの製品を一人もしくは数人で,最初から最後まで組み立てるというものだ.

 どちらが正解というわけでもないのかもしれない.労働と意味の関係は,東浩紀の言う動物的/人間的という二分法によって分析が可能である.フォード生産方式の人間疎外は,労働から意味を剥奪して動物的にする.セル生産方式においては,労働は意味と結びつきやすく,したがって人間的である.東が指摘するのは,動物的,人間的のどちらが正しいとかどちらかが生き残るという問題ではなく,この二つが「人間という動物」に必然的に伴う現象であり,片方を抜きにして議論が不可能であるという現代性をわれわれは認識しなければならない,という点である.

 機械化する社会において人間がどのように生きるべきかという問題は,100年前から考えられてきた古い問題ではあるが,コンピュータという特別な機械は,プログラム可能であることによってありとあらゆる機械をシミュレート,エミュレート可能にするという特徴を持っている.この新種の機械が,Amazon Mechanical Turkのような新たな人間と機械の関係を生み出すことは,歴史的必然のように思えてくる.