進化と形態形成と学習

GAをまわしながら学習と呼ぶその心について考えてみた。

まあ、所詮NNにとってGAというのはパラメータ空間を洗うという意味しかないわけだけど。定義域がきまっているのに進化とは是いかにといわれれば、そもそも問い自体が無効なのは確か。しかしそれはさておいて。

ヴァレラは、

オートポイエーシス=生命

とおき、

オートポイエーシス構造的カップリング=>形態形成

オートポイエーシス構造的カップリング+自己複製=>進化

と捉えた。この見方からいうと、生命そのものが学習の機能を持っているとした場合、そのまま学習、形態形成、進化のレイヤーに相当する。すると、学習と形態形成と進化の違いというのは、オートポイエーシス論的にははっきりしていることになる。

でも、ぼくにはそうは思えないなあ。形態形成はともかく、学習と進化は近年アブストラクトになりつつある。もはやそれを前提に話しないといけないんだろう。

学習と形態形成と進化が分化してくるという点にこそ、謎の本質があるような気がする。さらに次のレイヤーは、自分で自分の脳をいじることによって生まれてくるに違いない。

なんで忘れなきゃならないんだろう。

なんで老いなきゃならないんだろう。

なんで死ななきゃならないんだろう。

いやー、そりゃ全部必然なんですよ。そう言いたい。

グールドが「ダーウィン以来」で紹介している変態的な変態をするキノコバエなんかがヒントにならないかな。あれは形態形成なのか、自己複製なのかの境界があいまいな良い例だと思う。でも、粘菌もそうか。

さて、研究に戻ろ。