一月ほど前のことだが、研究室の修論生が、修論発表前日に準備をしていた。彼女の研究テーマは体の硬さと柔らかさの違いによる認知の違いだった。
彼女が
「神経系に身体性をつけることにどういう意味があるんですかね。」
と聞いてきたので、とっさに
「神経系に身体性をつけるのにどういう意味があるのかを問うのではなく、身体に神経性をつけることにどういう意味があるのかを問わねばならないんだよ。進化的にも、神経系は後から獲得されたものだしね」
と答えた。
考えると、ブライテンブルクのビークルもダマシオの「デカルトの誤り」もそういうことだったのだ。ブライテンブルクは、二個の車輪をもった単純なビークルという身体に、少しづつ神経性を導入していって、さまざまな運動を作り出す。ダマシオが「デカルトの誤り」とよび批判したものは「我思うゆえに我あり」から始まる思考形式で、彼は身体から我がどのように形成されるかを問おうとしているのだ。ちなみに、ダマシオは22日に理化学研究所でセミナーをするようなので、聴きに行く予定だ。
さて、彼女の最初の問い=「神経系に身体性をつけることにどういう意味があるんですかね。」に答えるとしたら、それは否定神学と呼ばれるものである。否定神学とは、否定を通して神を知るという神学であり、「神は○○である」ということによって神を知ろうというのではなく、「神は○○でない」ということによって神を知ろうというものだ。東浩紀の『存在論的、郵便的』で有名になった。
この問題は、排中律の解釈ともかかわってくるのだが、ここでは触れない。
否定神学は哲学的には誤りだが、発見における文体の一種であるのも確かだ。
・認知:身体と神経
常識:神経が身体を動かす
発見:身体が神経をつくる
統合:認知→身体性としての神経
たとえば、認知に対する既存の常識的な見解は、神経が身体を動かし統御するというモデルである。これを徹底するとホムンクルスの無限退行問題などが発生して行き詰ることになり、そこで身体が神経をつくるという発見に至る。
ここにおいて、最初に呼ばれていた身体と、後に呼ばれている身体では、神経までをも含むか含まないかという点において意味が異なる。そこで紛らわしいので、まとめて認知と呼ぶことにする。
多重人格や統合失調症とはいったいいかなる現象かということを、SFCの院生2人と飲みながら話していたら、身体の延長といってきた。いや、身体の延長というのは神経系が中心の用語法なんだよ、と話したらやっと納得してくれた。そういうことをいちいち説明するのは大変なので、普段なるべくこういう話はしないようにしている。
身体の延長というのは、神経系を中心としたパラダイムにおける誤差として世界を捉えようという見方である。ちょうど円に円を重ねるトレミーの周点円理論と天動説が17世紀までの天文学を支配していて、ケプラーの法則が発見されるまで信じられていたのに近い。
さて、いままでは認知における話題だったが、他にも同様の例は存在する。
・時空:時間と空間
・コミュニケーション:社会と心
・自己複製系:たんぱくとDNA
・計算:マシンとテープ
・世界:神と私
構成論的アプローチは否定神学のわなに陥らないための方法ではあるが、意識しないと結局やっていることは同じだったりするので気をつけよう。
相補性(complementarity)として世界を理解すること。
そしてその起源について考えること。