今日の対話複雑系研究会

正直つまらんかった

でも、安富さんがなぜ田中さんを呼んだのかは途中で分かった。

最初に安富さんがその話をすればよかったのにと思ったのは、ポランニーの暗黙知(tacit knowing)は、明示知(explicit knowledge)の対立概念であるが、対立は、knowing(知るというプロセス)とknowledge(知識)の間にあるのであって、tacitとexplicitはおまけみたいなものだ、という話。

田中さんの論文を読むと、プラトンの「メノン」の解釈として、

メノンの問い=要求=「言論の定義」を知ること

ソクラテスの問い=探求=対話を通して「実体」を知ること

という対立概念があって、

要求=明示知

探求=暗黙知

という対応関係が成立するからだ。

問題は、「哲学者」と日本で呼ばれている人には、哲学者と哲学学者と哲学者学者の3つのタイプがいて、今回は三番目だったということ。

1.ソクラテスの対話が実践としての探求だという話をしているのに、本人はまったく対話能力をもっていない。

2.ソクラテスの「無知の知」は何もしらないという話ではなく、ソクラテスはものすごくいろんなことを知っていたという話をしているのに、本人は何もしらないづくし。

それじゃあ、私ソクラテスのファンです以上のものは何にもないじゃん。

宮崎駿のところに

「うちの娘はトトロが大好きで、もう100回もみたんですよ」

というファンレターがくるらしいけど、「アニメは1年に1回だけにして山や森で遊ばせろ」というのが宮崎駿の嘆き、という笑えない話があって。

結局、ソクラテスプラトン?)自体がすばらしいから、google検索的コピペをしても、それなりにすばらしそうな「言論」をつくることはできるけど、ソクラテスを読んで、渋谷のセンター街で同じことをやろうというやつが現代のソクラテスなのであって、書斎にこもって文献研究しかしてなかったら、宮崎アニメが大好きな女の子と何が違うんだろう。

そういうメタ的な意味で今日は面白がっていたんだけど、長年の「哲学者」との交流の中であきあきするワンパターンでもある。

いや、そんなでも、世界全体からみたら、圧倒的に仲間なのです。それを忘れないように。はいはい。