自民党の圧勝に終わった総選挙そのものにさほど興味はない。ぼくが興味があるのは、小泉純一郎の引き際である。
小泉純一郎の仕事を一言でいえば、田中角栄的なるものの一掃である。
田中角栄が日本の政治に残したものとはすなわち、
1.土建を中心とした政治の利権化
2.金の集配に基づいた派閥
3.長老による院政
であった。
この3つとも田中角栄の前からあったのだが、その徹底さにおいて角栄は際立っていた。新幹線をどこかに引かねばならないのであれば、総理の出身地順に引けばよいというような角栄の手法の功罪についてここでは論じない。
小泉の施策がどこか矮小で真新しさに欠けるように感じるのは、彼の仕事がマイナスからゼロへ戻すための「リセット」だからである。ともかく、小泉は着実に手を打ったと言ってよいだろう。
第一の利権化については、日本における新保守のさきがけとなった中曽根内閣とやっていることは同じだが、道路公団と郵政の民営化は残ったシマの中でも大きなものだった。
第二の派閥政治については、政党助成金の影響など外部要因も大きいとはいえ、自民党の派閥が次々と求心力を失い、上位4派閥のうち3派が領袖不在という事態になっている。今回の総選挙で執行部中心の人材採用を行い、当選後も派閥に入ることを推奨しなかったため、「無派閥」が最大派閥というはじめての現象が起きている。
第三の院政においては、中曽根、宮澤、橋本を次々と引退に追い込み、現役議員の総理経験者は自民党では森、海部のみとなっている。自民党での彼の権力はもはやゆるぎないものとなっているであろう。
角栄的なものを一掃し、結果として彼は角栄と同じ力を得たのである。来年の9月における引き際に興味があると冒頭に述べたのはこうした理由による。はたして、最近高まりつつある任期延長論を受け、長期政権の布陣を敷くのだろうか。はたまた、議員を続けて院政を行うのだろうか。
ぼくの考えでは、おそらく彼はあっさりと引退し、趣味三昧の生活でも送るであろう。
なぜか。
それが彼の美学だからである。
今月号の文藝春秋は、当然のことだが小泉特集号の様相を呈していた。塩野七生や中西輝政などが論をはる中、唯一読むべき内容があったのは福田和也の文章であった。福田の論旨を要約すれば、「小泉は自らの美を完結するための自己愛として政治を行っている」ということである。
言い換えれば、古代ギリシャの哲学者たちが論じた真善美の問題系のうち、小泉を論ずるために最適な軸は真=偽でも善=悪でもなく、美=醜であることを洞察したものであった。他の論者はすべて真=偽もしくは善=悪の問題として論じたため、本質を見誤ったのである。これは、彼らの力不足というよりも、史家や政治学者の仕事ではなく文学者の土俵であっただけのことだ。
小泉自民党はなぜ総選挙に勝ったか。それは三系のうち、究極においては美が最強だからである。亀井は醜く小泉は美しい。事は真=偽、善=悪の問題ではなかったのである。
岡田民主党はなぜ負けたのか。それは真=偽、善=悪を論じてしまったからである。
このことは、それこそ善悪の問題ではなく、認知現象として人間とはそういうものなのだと思うしかない。
いまから12年前の夏に、議員会館の小泉事務所で、ぼくは小泉純一郎に会ったことがある。1993年の総選挙の後で、自民党は過半数割れし、細川連立政権がはじまったばかりであった。当時ぼくは弁論部の1年生で、自民党、新生党、日本新党、新党さきがけから各一名をよんで政策論争をしてもらうという三田祭の企画に参加してもらえないかというお願いをしにきたのである。交渉は首尾よく進んで、三田祭にきてもらえることになった。
当日のパネルは、小泉の独壇場であった。舌鋒鋭くびしばしと切っていき、他の議員を完全に制していた。いまテレビで見ると、どういう無能かという発言をよくするが、あれは総理大臣の仕事なのである。
森前首相も早稲田の雄弁会時代は、頭の回転もはやく論客として名をはせたらしいと、どこぞの誰かが言っていた。
全くの馬鹿では自民党の総裁にはなれないのである。しかし、ひとたび自民党の総裁になれば、馬鹿にならねばならない。
なぜか。
日本において、権力は「無能の美」に求心するからである。
その典型が天皇家であることは説明の余地がないだろう。
日本の権力構造が要求する「無能の美」と、人間小泉純一郎が求道する「英雄の美」の交点に、総理大臣小泉純一郎の美が存在する。そしておそらく、美の貫徹という点において、彼は成功者になるのだろう。