いまから40年ほど前であれば、マルクスを語らない若者はいなかっただろう。
ほとんどの若者は最後まで彼の文章に触れることはなかったが、ごく一部の若者は、嵐の後の静かな牢獄や四畳半の部屋で資本論を読み、彼が何を語ろうとしたかをはじめて知った。
現代の若者はマルクスのかわりにジョブズを、マーケティングを語る。冷戦が崩壊したからだ。
こうして経済学が思想の最前線であった時代は終わりを告げた。
ワールド・ビジネス・サテライトで連呼されているのは、生産性、欲望の再生産、生産性、欲望の再生産、生産性、欲望の再生産。。。。
茂木さんと先日しゃべったときに、マルクスとベンチャーの話になった。
マルクスは確かに全体を志向した。教養のある人がそれを人々に望むのは分かるが、各人が全体を志向しなくてもよいというアダム・スミスやロックのアイデアに、リアリストとしての自分は共感する。誰もカントの定言命法のようには生きられない。
いまのネット業界でマルクスやワルラスについて話す機会は確かにないが、それが彼らを批判する理由にはならない。
問題は、世界を眺望できないことを知ったときに、人はどのように世界を語るべきかということだ。
全体を志向しても所詮"全体"なのだから、そのような概念を持ち出さずにどのように世界が成立するのかが次の問題だ。その問題は未だ解かれていないし、解かれていない以上はジョブズは所詮手のひらで踊っているにすぎない。
すなわち、本質的には何も変わっていないのである。