三昧/覚/空

正月だったので、何もせずに10日ほどかけてフランシスコ・ヴァレラの「身体化された心」"The Embodied Mind: Cognitive Science and Human Experience"を読んだ。

kskからは、事前に「分かりやすいから一人で読めますよ」と言われたが、なかなかどうして実は難解な本である。かといって、みんなで読んだから分かるというわけでもない。

本書は、副題にあるように認知科学と人間経験の循環をテーマとしている。

 

人間経験側の方法が仏教の三昧/覚瞑想である。しかたがって、本書を紡ぐ横糸は、瞑想や修行を通して習得されやすいものであり、本を読んだくらいで「身体的にわかる」ということはなかなかないのである。ここにこの本の難しさがある。

一方の認知科学のほうは、認知主義(古いAI)、創発主義(コネクショニズム)、エナクティブアプローチ(新しいAI)に至るまでの歴史が直線的に書かれていて、いたって分かりやすい。この縦糸が進んでいく過程において、横糸として仏教中観派の洞察が随所に織り込まれるといった形式になっている。

また、認知科学の説明原理として現象学分析哲学プラグマティズムなどの現代哲学者の言説がたびたび引用されるが、現象学デカルトの末裔として見ており、著者が一番評価しているのはリチャード・ローティなどのプラグマティズムである。しかし、これも最後には問題が指摘される。

とにかくフッサールやローティに限らず、ひとまず「ある意味で」評価しておいて、次のステップではその捉え方の問題を指摘するという直線的形式をとるため、しっかり読解しないと、彼がどこにポイントを置いているのかを誤読してしまう。この本を通してヴァレラが最後まで全面的に支持し続けるのは、およそ1800年前に大乗仏教を体系化した仏教ナーガールジュナ(竜樹)と、ニーチェハイデガーなどの西洋哲学と仏教の間の架け橋をつくった京都学派の哲学者、西谷啓治の二人だけである。

それまでの間に、デカルト、カント、フロイトハイデガーニーチェ、ヒューム、フッサール、メルロ・ポンティ、ジャッケンドッフ、ミンスキー、チョムスキーリチャード・ドーキンスギブソン、ローティ、ホッブズなどが、「ぜんぜんだめ」か「いいとこもあるけどだめ」といわれてしまう。

話を認知科学にもどすと、

認知主義=>創発=>エナクティブ

という3つの歴史的なステップをたどって展開される。

アプローチ認知主義創発エナクティブ
主体と世界の関係記号的表象主義非記号的表象主義構造的カップリング
自我=自己自我は実在自我は存在自我は存在しない
人工知能日本の第五世代コンピュータコネクショニズム,ミンスキーの心の社会ブルックスの表象なき知能

認知主義

問1 認知とは何か?

 記号計算としての情報処理の規則に基づいた記号操作である

問2 それはどう機能するのか?

 別個の機能要素である記号を維持して操作しうる装置を介して。このシステムは記号の形態(その物理的属性)とのみ相互作用し、その意味とは作用しない。

問3 認知システムが十分機能しているときをどうやって知るのか?

 記号が現実世界のある諸相を正しく表現し、このシステムに与えられた問題が情報処理によりうまく解決されるとき

創発

問1 認知とは何か?

 単純な成分のネットワークにおける全体状態の創発である。

問2 それはどう機能するのか?

 個別操作についての局所ルールと要素連結性における変化のルールを介して。

問3 認知システムが十分機能しているときをどうやって知るのか?

 創発特性(および結果として生じる構造)が特定の認知能力(要求される作業に対するうまい解決策)に対応するとみなされるとき。

エナクティブ

問1 認知とは何か?

 行為からの産出。世界を創出する構造的カップリングの歴史である。

問2 それはどう機能するのか?

 相互連結した感覚運動サブネットワークの多重レベルからなるネットワークを介して。

問3 認知システムが十分機能しているときをどうやって知るのか?

 (あらゆる種の若い生物のように)進行中の存在世界の一部になるときか(進化の歴史で起こるように)新しい世界が形成されるとき。

P27ページに面白い図があるのでぜひ見てほしい。この図の円の外側ほどヴァレラが評価している人ということになる。

西洋哲学および西洋科学だけでは、いわば否定神学(否定を通して何かを語る)しか生まれてこない。これはニヒリズムが客観主義に対してコインの表裏の関係にあるからであり、自我が存在しないということを肯定的に捉えるためには、仏教の方法によって慈悲を習得する他ないという。

本書は、西洋科学および哲学の洗礼を受けた者がニヒリズムからいかに脱却するかという問題の答えを、仏教の三昧/覚瞑想に求めたものである。ヴァレラ自身がこの問題に1970年後半に深刻に対峙していたようだ。

本書のタイトルにあるEmbodied Mindは、科学者が一見するといわゆる身体性認知科学(embodied congnitive science)の意味のように聞こえるかもしれない。しかし、本書を読むと分かるのは、認知科学におけるEmbodied Mindの他に、仏教の三昧/覚瞑想によって心を身体化させるという人間経験的な過程を表している。

こうして、この本のタイトルが"The Embodied Mind: Cognitive Science and Human Experience"であることが解題されるのである。

そして、ヴァレラはこの「2つのEmbodied Mind」を融合しようと試みているのだ。

西谷啓治は、鈴木大拙の創刊した英文仏教思想誌『イースタン・ブディスト』の編集責任になるなど、鈴木大拙と親交があった。鈴木大拙が通った鎌倉円覚寺の座禅会に、20歳のころにぼくも1週間ほど参加したことがあるが、本書を読んでなぜあの時の座禅がだめだったかが少し分かった。