思考と空間

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

(あけおめことよろ)

さすがに、新年なので実家に帰った。実家は横浜の普通の住宅街にあり、適当な大きさの区画に、ほどほどな格好で建っている。普段は市ヶ谷という都心中の都心部にすんでいるので、こんな普通の郊外の住宅街さえ新鮮な驚きを与えてくれる。

ありふれた話だが、思考は空間から影響を受ける。脳の違う場所で考えているような気さえする。朝起きるときに雀の声を聞くだけで、経済というものの見方も違ってみえてくるから不思議だ。故にときどき実家に帰るようにしようと思う。

将来は、都会と田舎の生活を半々くらいにするのがいいような気がする。どんな仕事をするかや、どんな本を読むかといった刺激に比べても、どのような空間にいるかという差異のほうがよっぽと刺激的だ。

いままで一番不思議な空間を味わったのが、ネパールのカトマンズの街を歩いたときと、北朝鮮平壌の地下鉄でエスカレータを降りていったときだ。しかし、そのような空間は思考を喚起させない。思考が解釈モードにはいってしまうからだ。真の創造的な思考は、日常の非日常性に突如として現れる。デカルトにとっての天井のハエなんかがよい例だ。

PICSYが使われるようになるまで100年くらいと普段言っているが、横浜で考えると400年くらいの気がする。ネパールにいったら3000年とか言い出すに違いない。いい加減なものだ。しかし、人間が所詮そのようなものであるということが、この世の救いでもある。

今年のPICSYGumonjiとVCVCといった応用を進めていくことが目標になるだろう。

まあ、あせらずすすめていこう。先は長い。