Web2.0は世界に何をもたらしたか

雑誌「智場」で梅田望夫公文俊平の対談の司会をしました

Web2.0は世界に何をもたらしたか【Webスペシャル版】

鈴木── 今のところ,この社会は,ネットだけで生活に足るだけの収入を得ることに成功していません.少なくとも,大多数の人々は既存の経済圏の上で生きています.だからこそ,社会システム自体を自分で作ってしまおうというスタンスとして,わたしは自分を投機してしまっている.どちらかというと,生き方としては例外的なので,わたし個人の話をしても類型化できないとは思いますよ.

梅田── だけど,そのことを問題意識として強くお持ちではあるわけですね.

鈴木── そうですね,問題意識は強く持っています.人間が生きている時間の総和のうち,どれだけの時間を情報社会的なフィールドで使えるのかは,そうした産業社会的な問題に深く依存しているからです.

梅田── わたしもそのような問題意識を持っているんですよ.

公文── それには,個人の問題と社会の問題があるんですよ.明治時代の親だったら,「大臣や大将になれ」と教えるか,「これからは実業家の時代だから,実業界のほうに行ったらどうだ」と諭すか,と.じゃあ,自分の子供を実業界に行かせるからといって政府や軍隊はなくなってもいい,というわけではないですよね.同様に,今だったら,役人になるか,実業界に行くか,それとも次の智のゲームに自分の人生を賭けるか,となると,やはりわたしなら三番目をやって欲しいですが(笑),しかし残りの二つが要らなくなるわけではないでしょう.

梅田── 大きなパラダイムが変わらずに続いている時代の職業選択という問題でしたら,事後的に微調整ができました.ただ,今はリアル世界とネット世界のパラダイム・シフトの端境期にある.10年前なら,このような問題は問わなくてもよかったかもしれませんが,今は問わなくてはならない,という問題意識をわたしは持っています.

てな感じの話です。フルテキストは本をご購入ください。

開発者募集

一緒に働いてくれるソフトウェア開発者を募集します。

・フルタイム

・いい仕事をする人

・給与等は応相談

・文明とライフスタイルをデザインしたい人はなおOK

・革命的なソフトウェアをつくりたい人はなおOK

名前、年齢、居住地、得意なスキル、いままで作ったソフト、応募理由を書いて、

こちらのコンタクトのメールアドレスにご応募ください。

お待ちしております。

古武術

今日は武術研究家の甲野善紀氏の道場で稽古をつけてもらいました。ナンバ走りで有名な方です。

筆をちょんちょんとつけるような感じ、について教えてもらいました。

外にでると突然走り始めましたが、その動きはまるで忍者のようです。

日常の動き一つ一つに風がたつので、見ているだけで面白いです。

予想以上に自らの身体運動について理論的な人で驚きました。

道場にあるフラーのテンセグリティ構造をいじっていたら、新しい身体モデルを思い付きました。

京都だらけ

先日、1年半ぶりくらいに飲み会softdrinkを復活させたわけですが、

なぜかMLではぼくのメールに返事をしてくれず、みんなブログに

書くわけです。そういう時代なんでしょうか。

UE清水さん

コンピュータカウボーイの集まるイベントSoftdrinkに行って来ました

CE小林さん

Softdrinkと未来のあちら側

アプ小野さん

熱く雑談する飲み会の重要性

そんなsoftdrinkでおもったのは、京都人が多いということ。

一次会の最初、ぼくのまわりにいたのは、紙の洛西はてな近藤CE中嶋と京都人にかこまれ、

最後のほうに別のところで飲んでいたら、CE小林、はてな近藤、インフォ江島とこれまた京都人にかこまれてました。マイノリティーになってなげいていたら、「京都の人好きなんじゃないの?」と近藤さんにつっこまれ。

今週の水曜日はなぜか客人が多く、6組くらい立て続けにやってきたのですが、グル大向の後輩、同志社の伊藤さんら京都人がまた4人もおりました。この日は未踏出身者が10人くらいいて、なんだか未踏アジト化しつつあります。

というわけで、たぶん深層心理で京都の人が好きなんだと認めます。

時差ぼけ

先週までアメリカはインディアナ大学で行われたALIFE Xという国際会議にいってきた。

サマータイムということもあり、時差は13時間とちょうど裏側。

向こうに滞在している1週間のほとんどを時差ぼけですごす。

そしてちょうどなおったころに東京にもどってきて、ただいま時差ぼけ中。

たぶん週末くらいでなおるのだろうけど、来週からまた地球の裏側のブラジルは

リオで行われるクリエイティブコモンズの世界大会 iSummitに1週間行ってくる。

そしてたぶん向こうで時差ぼけになって、なおったころに東京にもどってまた時差ぼけ

になるに違いない。

というわけでjet lag Juneな一ヶ月になりそうです。

Web2.0を考えるための古典

InterCommunication 2006年summer ブックガイド 情報と世界を読む想像と創造のために」に寄稿した文章です。ヴァネバー・ブッシュとアラン・ケイについて紹介しています。

Creative Commons License
この作品は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。

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Web2.0を考えるための古典

 ティム・オライリーらが普及したWeb 2.0という言葉は、統一的な定義を与えようがないけれど、どこかすばらしく感じる、最近のWebのトレンド全てに貼られたものだ*1。

 しかし、その中心的な性質を一点だけ述べるとするならば、この世界を論じるための土俵が、コンテンツのレイヤーからアプリケーションのレイヤーに一段階上がったことである。このアプリケーション化によってコンテンツはデータとして扱われ、人間にとって可読なWeb(Web 1.0)から、機械にとっても可読なWeb(Web 2.0)への変化は、Webをプラットフォームへと推進する。

 こうしたデータは、ソーシャルウェアと呼ばれる新しいソフトウェア群によって連携される。ロングテール集合知は、その結果として起きた現象だ。したがって、Web 2.0を考えるにあたっては、こうしたソーシャルな話題を扱った本を取り上げるのが普通であろう。

 だが、今回は、この業界の古典ともいえる論文を読み込んで、そこから光をあててみたい。

 Webが「くもの巣」であることからもわかる通り、Web 2.0で注目されているWebをネットワークとして見る視点は、ほとんど先祖がえりである。その先祖にあたるのが、ヴァネヴァー・ブッシュが1945年にアトランティック・マンスリーに発表したの"As We May Think"という論文である。日本語では、西垣通編著の「思想としてのパソコン」(NTT出版,1997)に収録されている。

 この論文では、有名な"memex"が導入される直前に、脳の網目状経路が実現する連想作用と図書館のような階層型索引システムとの違いが議論される。神経回路がネットワークなのだから、人間が情報選択するときもネットワーク的にしてしまえばいいという発想から、"memex"は生まれてくる。これが"As We May Think"(われわれが思考するごとく)というタイトルの解題にあたる。外部世界のほうに神経回路をあわせるのではなく、外部世界を神経回路にあわせてしまおうというIAの思想はここにはじまる。

 西垣がこの本の序文で鋭くも指摘するように、コンピュータをめぐる人間の知的関心は、人工知能(AI:Artificial Intelligence)と知能増幅(IA:Intelligence Amplifier)の二つの流れがある。IAの保守本流は、ヴァネヴァー・ブッシュ⇒ダグラス・エンゲルバートアラン・ケイと連なり、スティーブ・ジョブズによってついに商業化に成功する。

 現在のIAの動向がブッシュによってどこまで予見されていたかを"As We May Think"に見ようとすると、そのあまりの網羅っぷりに読者は驚くことだろう。情報過多と認知限界、チープ革命ウェアラブル・コンピューティング、ワイヤレス・コンピューティング、mathematicawikipedia、ペンインターフェイスなどなど。最後には、世界を電気信号のネットワークとして見ており、神経回路と外部世界を直接つないでしまおうという発想から、神経接続の可能性にまで触れている。

 世界をネットワークとして見ると、ネットワークには独自の距離があることが了解できる。GooglePageRankをとってみればわかるとおり、検索の本質は、この距離を測ることにある。検索とリコメンデーションとフィルタリング、ハイパーリンクは、その意味で区別できない。

 たとえば、クエリーフリーという検索パラダイムがある。普通の検索が、入力フォームにキーワードを入れて検索ボタンを押すのに対して、クエリーフリーでは、文字を入力する先からWeb検索の結果をたちどころに表示することができる。この無意識の検索は、入力補完などによってすでに実用化されているのだが、これを検索だと気づく人は少ない。

 同様に、ハイパーリンクをダイナミックに検索することも可能だ。はてなのオートリンクは、ハイパーリンクを準動的に生成している。性能の問題さえ気にしなければ、検索結果の選択も含めて完全に動的にすることさえ可能だ。通常の静的なハイパーリンクは、最もシンプルな検索である。ブッシュが"As We May Think"の中で、ハイパーリンクのことを検索の一部とみなしていることは注目に値する。

 ある文字列と最も近い距離のドキュメントを作者が指定したものがハイパーリンクである。距離の近い順に全て列挙すれば検索と呼ばれ、距離の近い最初のいくつかを絞って表示すればリコメンデーション、距離が遠いものすべてを削除して表示すればフィルタリングと呼ばれる。SNSは人間関係に基づいて世界の距離を計算できると仮定し、それをインターフェイスのレベルにまで落としたものだ。

 しかし、これらはすべて、世界の距離を計算していることに他ならない。あとはユーザ・インターフェイスによって呼ばれ方が異なるだけだ。すべては検索なのだ。Web 2.0はこういった広い意味での「検索」の時代である。しかし、その重要性は60年以上前に予見されていた。

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 もう一冊の本を紹介しよう。アラン・ケイの論文集「アラン・ケイ」(アスキー出版局,1992)である。「パーソナル・ダイナミック・メディア」「マイクロエレクトロニクスとパーソナルコンピュータ」「コンピュータ・ソフトウェア」「教育技術における学習と教育の対立」の4つの論文が収録されているが、全く異なるテーマを扱っているように見えて、アラン・ケイの主張はたったひとつである。

 パーソナルコンピュータの父と呼ばれるアラン・ケイが、その概念を発表した論文のタイトルは、「パーソナル・ダイナミック・メディア」である。パーソナルコンピュータとはパーソナル・ダイナミック・メディアにつけられた別称である。彼は、パーソナルコンピュータを「個人が動的にメディアを作るメディア」すなわちメタ・メディアと位置づけていた。

 マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」を半年間他のことを何もしないで読み込んだアラン・ケイは、コンピュータを"コンピュータ"と呼ぶことに違和感を覚え、"メディア"と呼ぶようになる。そして今までのどのメディアとも違うのは、それがメディアを作るメディア、メタ・メディアであるという洞察に至る。

 パーソナルコンピュータが「メディアをつくるメディア」すなわちメタ・メディアだとして、それが印刷技術のように世界にあまねく普及するというのは、どういう状態なのだろうか。そのことを議論するために、アラン・ケイは"コンピュータ・リテラシー"という言葉を作り、識字率を100%に上げるがごとく、世界中の人がこのリテラシーを持つべきだと宣言した。

 コンピュータリテラシーとは、すなわち、コンピュータを使いこなす技術のことである。だが、ここで"使いこなす"というのは、決して、コンピュータ上のメディアでメッセージやコンテンツを作ることではない。つまり、アラン・ケイの定義によれば、2chはてなmixiでメッセージを送信しあったり、WordやExcelで文書を書いたり、IllustratorPhotoshopでかっこいいコンテンツを作成しても、コンピュータ・リテラシーを持っていないことになる。それでは、「メディアを作るメディア」としての特徴を活かしていないからである。

 では、プログラムを書く技術があればいいだろうか。アラン・ケイは「プログラムは勉強さえすれば誰でも書ける」といいう。つまり、世の中にいるほとんどの職業プログラマーはコンピュータ・リテラシーを持っていないということになる。

 アラン・ケイを代弁すれば、はてなの開発者の近藤淳也greeの開発者の田中良和のような人はコンピュータリテラシーをもっていることになる。近藤氏は、はてなを作る前にプログラムの素養はほとんどなく、プロのカメラマンであった。田中氏は大学時代は法学部政治学科出身で理系でさえなかった。

 しかし、彼らは強い意志と優れた能力を持った特別な人たちだと、人は言うだろう。確かに、ユーザが10万人を超えるメディアを誰でもがつくれるというのは、ほとんどありえないことだ。そうではなく、誰もが自分のためにメディアを作れるようにするためにはどうすればよいか、アラン・ケイは考えた。はじめての完全に動的なオブジェクト指向言語smalltalkはそのようにして発明されたのである。

 アラン・ケイは、"誰でも"をはじめから子供たちにまで広げて考えていた。子供たちでも立派に文章は書ける。だから、子供たちでも立派にメディアを作れるはずだと考えた。そしてアラン・ケイは、コンピュータを教育の道具として使うのではなく、コンピュータを道具として教えるのでもなく、「メディアを作る」教育をすることが極めて重要だという知見に基づいて、優れた教育論を展開した。

 「アラン・ケイ」は極めて一貫した思想の持ち主であり、以上のことは4つの論文に散在した内容だが、一貫した流れの中で理解しなければならない。「パーソナルコンピュータ」「オブジェクト指向」「コンピュータ・リテラシー」「教育論」「メディア論」は、彼の別々の仕事ではなく、一つの仕事「『すべて』の人々がメッセージだけでなく『メディアを作る』ことができるようになるためにはどうすればいいか」、ただその一点に集約される。

 その環境は、Web 2.0以降の世界において、どのように実現されるのだろうか。ユーザがメディアをつくれるメディタの萌芽はいくつかみられる。ning.comは、誰でも人のソースをコピーしながらソーシャルウェアの開発・運用ができるというサービスだ。salesforceのAppExchangeはエンタープライズの世界でそれをやろうとしているし、secondlifeは3Dオンラインゲーム空間上でオブジェクトの挙動をユーザがコーディング可能とし、次世代のWebを予感させる。

 このような新しい潮流は、Web 2.0の先にあるもののように見えて、実は古典の中に埋もれている。もちろん世界の進行の微分を感じ取ることも重要だが、時には骨太な古典の中から次になすべき仕事を考えてみたい。

*1 ティム・オライリーによるWeb 2.0の論考「Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル」は、CNET Japanで翻訳されたものが読めるので、そちらを参考にしてほしい。

http://japan.cnet.com/column/web20/story/0,2000055933,20090039,00.htm

http://japan.cnet.com/column/web20/story/0,2000055933,20090424,00.htm

人間による機械の増強

最近、更新がとどこおりがちなので、人のブログへのコメントをそのまま転載。

長尾のブログ2.0 Webの間違った進化

チューリングは機械を人間にしようとし、

エンゲルバートは機械で人間を増強しようとし、

リックライダーは人間と機械の共生をうたった。

そしてAmazon Mechanical Turkは人間で機械を増強しようとしている。これは現代版の中国語の部屋ですよ。

PageRankは人間がつけたリンクという構造を使って計算しているわけで、ソーシャルブックマークとエンジニアリング至上主義性においては大差ない。要するにソーシャルウェアは人間による機械の増強なんですよ。ブログもまたしかり。

素朴な近代人間中心主義がどこまで通用するのか、だんだんわからなくなるご時世です。

予測市場の問題にしても、アダム・スミスの亡霊だといってもいいけど、もう一段つきぬけた感もあります。

僕の問題意識は、身体と環境の生態学的な関係がどう変わるかという点にあります。

40億年前に機械から生命が生まれ、10万年前に生命から人間が生まれました。そしてこれから100年の間に何かが生まれるのでしょうか。