チューリングテストと身体性とその先(鈴木啓介氏特別寄稿)

チューリング生誕100年と1ヶ月の今日、特別にゲストエントリーを書いてくれるのは、英国サセックス大学研究員の鈴木啓介博士である。鈴木啓介氏は、もうひとりの自分を現実感をもって観るというドッペルゲンガー体験を生み出すことに成功して最近ネットで話題騒然となった、代替現実(SR)システムの発明者(発案者であり開発者)である。代替現実システムについては、こちらこちらの記事を読むと分かりやすいだろう。

実は、彼は池上高志研究室の後輩で、ヴァレラの”Principles of Biological Autonomy”をエクストリーム・リーディングした、いわば同志である。大学院時代オートポイエーシスの研究をし、ポスドクになってからは意識と身体性の関係について研究を続ける鈴木啓介氏が、今回はチューリング・テストの新しい可能性を最新の研究や様々なSFを通して読み解くという興味深いエントリーを寄稿してくれた。

チューリングの切り開いたアイデアは、いまでも科学者にインスピレーションを与え続けている。だが、科学する心は科学者だけの専売特許ではない。まどろみの中で夢の続きを見るあの瞬間は、誰に対しても開かれている。人間の知能を、コンピュータやロボットなどの手法で作り出すことが果たしてできるのか、ぜひ一緒に考えてみて欲しい。

チューリング生誕100周年特別シリーズについては、「アラン・チューリング、その魂の灯火」(鈴木健)、「チューリングの夢」(森田真生)も要チェック。

************************************

チューリングテストと身体性とその先

鈴木啓介イギリス サセックス大学 意識科学研究センター 研究員

アラン・チューリング。このブログの主、鈴木健氏が息子の名前をとったとされるコンピュータの父である(注1:ちなみにもう一人はパソコンの父、アラン・ケイ)。チューリングについて知ったのは、昔研究室にあった漫画を読んだのがきっかけだった。機械でどうやって生命を作ろうとか考えていた大学院時代に、チューリングの名を冠したものには幾度も出会うことになった。チューリングパターン、チューリングマシンチューリングテストチューリングによって、それまでただの「モノ」であった機械は、「ワタシ」達自身でもある生命や知性を語ることができるレベルまで引っ張りあげられた。あるいは、計算万能性やソフトウェアという概念は、デカルト的な物と心という二分法に情報的実体という新たな次元を付け加えたとも言えるのかもしれない。実際、このパラダイムは深く浸透しすぎていて、我々が脳について語るときに無自覚にコンピュータのメタファーを使ってしまうほどだ。しかし、チューリングの業績について詳しくは先の二人におまかせして、ここではチューリングテストをきっかけとして、少し違う方向に話を展開していこうと思う。

映画「ブレードランナー」で人間とレプリカント(=人造人間)を見分けるためのテストが出てくる。フォークト=カンプフ(VK)テストと呼ばれるこのテストでは、対象となる人に対して感情を揺さぶる質問を投げかけ、そのときの生理的反応から人間とレプリカントを見分けることが出来るとされる。チューリングの業績の一つである、チューリングテストも同様に、人間かコンピュータか分からない相手とチャットを通して会話をすることで、相手が人間かコンピュータかを見分けるテストである。VKテストとチューリングテストの重要な違いは、チューリングテストでは文字によるチャットのみに相手との相互作用を制限している点にある。こうすることで機械と人間の間に生じてしまう知性とは関係ない差異、VKテストで利用する生理反応などの身体的機能や外見上の違いを無視できる。チューリングはあくまで(それが存在するとして)身体から切り離された純粋な知性というものを考えていた。そうしてそのような知性がコンピュータによって原理的にはシミュレートされうるという主張を持っていた。ここからは、他の全ての機械をシミュレートできる万能計算機械としてのコンピュータに、チューリングの揺るぎなき信頼を持っていることが伺える。

毎年、人間に最も近い人工知能会話ボットに授与されるローブナー賞の大会では、実際に会話ボットがチューリングテストをクリアできるか人間の審査員によって審査される。年々性能が上がっている会話ボットの幾つかが、会話においては完璧に人間を騙せるようになるのも間もなくかもしれない。一方で、近年のロボットや人型アンドロイドの著しい技術発展を見ていると、身体を交えたフルバージョンの「模倣テスト」を考えることも悪くないように思える。チューリングテストを純粋で原理的な知性ではなく、身体化し具象化した対象にまで広げていくと、この問題はある意味で我々が生命と非生命を外から見分けられるかという問題に到達する。我々はそもそも何をもって目の前の対象を生き物だと認識しているのだろうか?VKテストのような情動反応? 自分で動きを作り出す自律性? あるいは、もっと漠然とした「生きて」いる感じ? ライフゲームを発見したジョン・コンウェイは、夜中の病院のスクリーンで静かに瞬くライフのパターンがまさに「生きて」いると感じたという。

発達心理学トレヴァーセンが行ったダブルモニター実験は、この生命と非生命の区別という問題に面白い視点を与えてくれる。この実験では母親と乳幼児がビデオカメラとモニター越しにコミュニケーションをする。母親と赤ちゃんをライブで繋げた場合、母親はこのモニター越しでも赤ちゃんをあやすことができたが、過去に記録した母親の映像を流したときは赤ん坊をあやすことができなかった。つまり、赤ん坊は母親が「生」でないことに気づいてしまった。この研究が面白いのは、我々が本質的にただ見ているだけの観察者ではいられないことを示した点にある。注目して欲しいのは、母親の映像自体はライブでも記録したものでも完全に同一な点だ。違いは観察者である赤ちゃんの方にある。ライブのときだけ生じるリアルタイムの赤ちゃんの反応が、母親の振る舞いに影響を与える。赤ちゃんはライブのときのみ存在するこのコンティンジェンシーそのものを感じ取っているのだろう。

このように、対象に自分自身が巻き込まれることで始めて生じる「ライブ性」ともいうべき性質こそが、我々がある対象を生き物っぽく感じる要素の一つだと考えることができる。そして、もちろんこれは生命だけに特有なものではないかもしれない。例えば、オートバイのような複雑でダイナミックな機械と触れ合うと、同じような感覚が引き起こされる可能性はある。いずれにしろ、ここで重要なのは「生き物っぽさ」というのは「もの」に属する性質ではなく、ものと我々の間の相互作用そのものに宿っているという視点である。超越的な観察者を否定し、世界に開かれ、ときには世界にはみだしたものとして知性や生命を捉えることで見えくるものがある。しかし、ここではこのような身体化された世界をさらに一歩先に進めてみることにする。

先日、私が発案から開発まで関わってきた代替現実(SR:Substitutional Reality)システム理化学研究所BSIから発表された(注2:脇坂崇平研究員、藤井直敬チームリーダーとの共同研究)。SRシステムはパノラマカメラで撮影した360°の映像をヘッドマウントディスプレイ(HMD)で体験する装置である。HMDには運動センサーがついており、全方位映像の好きな方向を自由に見ることができる。ここまでだと、これはテレプレゼンス装置とテレイグジスタンスと呼ばれるものだ。SRシステムの肝は、HMDに付けられたカメラからのライブ映像と過去に記録したパノラマ映像を「シームレス」に切り替えられるところにある。例えば、あなたが実験室に来る1時間ほど前に、同じ場所で映像を前もって撮影しておけば、あなたは、今見ているものが、現在の映像なのか過去映像なのか気づけなくなる。つまり、あなたが今、体験し現実だと信じている世界を、実験者が実験的に操作可能になる。このシステムで何が出来るのだろうか?

SRシステムには過去映像を現実だと信じさせるためにいくつかコツがある。本人が自分の体を見ないように気をつけるのがその一つだが、もう一つ、人との会話を始めとするリアルタイムの相互作用をなるべく避けるというのがある。過去映像に登場させた人物が簡単な質問をしたりはできるが、即興演奏のようにその場で参加者がつくりあげるような会話は過去映像では再現できない。これは先程のコンティンジェンシーの認知の話と同様である。しかし、SRシステムでは、ここで別の問いが自然と思いつく。眼前の出来事を限りなく現実だと信じている人にとって、ライブの相互作用はどこまで必要なのだろうか?映画「シックスセンス」でブルース・ウィルス演じる主人公は、自分が置かれた「ある状況」に最後まで気づかない。もしかしたら、会話がたとえ一方通行であっても、人はそれを都合のいいように解釈して納得してしまうのかもしれない。実際の会話でも実際はコミュニケーションにはこのような断絶が頻繁に起こっていて、それでも我々はうまくコミュニケーションは成り立ってしまうのだ。

以上の「シックスセンス」問題(注3:ちなみに、この問題の名付け親は鈴木健氏である)はSRシステムで取り組もうとしている問題の1つである、現実への強い信念が作り出す合理化や作話とも関係している。トップダウンの信念が、ボトムアップの知覚情報にどこまで影響するのかという問題は、どうして我々が物理的に存在しないものを「経験」してしまうかと関係している。あるいは精神疾患患者に見られる妄想や幻覚の解明に一役買うというべきかもしれない。しかし、このような脳の中にある「信念」をベースにした説明は、先ほどの身体化された知性という見方と正反対なようにも思える。イギリスでは最近盛んなベイジアンブレインという考え方がこの2つを調停すると期待されている。が、だいぶ長くなったのでその辺の話はまた別のところでしたいと思う。

チューリングの頃から比べると、我々の脳が行う「知的」プロセスへの見方自体も随分と変わってきたと感じる。知的プロセスは脳だけに閉じてないし、世界と身体との関係性の中のダイナミクスとして捉えるべきだし、一方で、我々の脳は以外と適当に見えてないものを処理するし、合理的な判断というものが一つの幻想であるということが分かってきてしまった。チューリングマシンは、これら全部を計算できるのだろうか?チューリングはそれでも原理的にはYESと答えるかもしれない。グレッグ・イーガンSF小説ディアスポラ」で、コンピュータとして動作する巨大な有機物が描かれている。ワンの絨毯と呼ばれる、チューリングマシンと数学的に等価なパズルを解き続けるこの巨大高分子「コンピュータ」は、多様な生き物からなる生態系をまるごとシミュレートしている。中にいる生き物達にとっては、仲間とのダンスも真の意味で「ライブ」なのかもしれないし、その「世界」に存在しない妄想をすることすらあるかもしれない。しかし、このシミュレータはもしかしたら地球と同じような物理的な環境を、原子レベルから全てを計算しているのかもしれない。そこでは生命や知性の形式的な理論は霧消してしまう。そんなシミュレーションは地球がもう一個あるのと同じ意味しか持たない。そう考えると、生命や知性を真に理解するために我々に必要なものは、やはり、主観と客観の狭間で踏ん張り、身体性と計算論を包含する、中道をいく理論なのだろう。そう、世界を、新しい魔法で、再魔術化するような

2012年7月21日 ブライトン イギリス